『四万十~いのちの仕舞い~』
監督 溝渕雅幸

 四万十市で義父の医院を継いで診療所を営み、訪問診療による終末医療に取り組んでいる小笠原医師の姿を捉えたドキュメンタリー作品だ。彼の人柄を映し出しているかのように、実に穏やかでゆったりとした映画で、折々に挿入される柔らかな描線によるイラスト画像が効果的に作用していたように思う。

 二十年前に在職していたという香川県の赤十字病院にて毎年行っているとの新人看護師に向けた研修のなかで彼が語っていた“鍛えられる”との言葉に、そう言えば、十代の時分に友人たちとの対話のなかで「人生とは何か」について、“自己実現”だと思うというようなことを口にしていた自分のことを想起した。そして、学生時代を終えて帰郷した後に、“鍛えられる”という経験をほとんどしていないことに改めて思い至ったような気がした。

 職業には、糧を得るための報酬を稼ぐ営み、社会的役割を果たす営み【ジョブ】、業績として形を残す営み【ワーク】、アイデンティティを形成する営み、の四つの側面があるというようなことを教わったのは、大学一年の教養課程での社会学の講義だった気がするが、小笠原望氏にとっての医師というのは、まさしく職業のこの四つの面を全てフルに満たした天職なのだなとの感慨を覚えた。午前七時前から往診の準備をし、夜更けの往診時に視留めた蛍の光に足を止め、命を想う。そういう“自己実現”を彼が果たすうえで要した鍛錬と喜びに対する強い思いがあればこそ、研修講義で若い看護師たちに、患者さんから貰う鍛錬と喜びという二つのことに対して、ともに積極的であれと諭していたのだろう。

 映画が終わって場内が明るくなってみると、奇しくもすぐ後ろの席に、中学で同じバスケット部だった同級生の耳鼻科医がいた。休診日なので見に来たが、ここに来れば君に会うような気がしていたなどと言うものだから、いつもいつもいるわけじゃないぞと返したのだけれども、思わぬ遭遇が愉快だった。小笠原医師は弘前大学の六年先輩になるとのことで、若い時分から人格者として認められていたそうだ。田舎の診療所で日夜“職業”に勤しみ、花を愛で、川柳を嗜む……見事な人生だ。

 他方、終末医療問題ということでは、映画で示された訪問診療による終末医療には自宅療養型と介護施設型とがあって、施設型の場合、病院で迎える終末との違いがどこにあるのかは、あまりよく判らなかったように思う。終末医療を小笠原医師に担ってもらうことの幸いはどちらの型においても共通するのだろうが、そういう属人的な問題であれば、その施設が彼の営む病院であっても支障はないどころか、利便性はむしろ高くなる。施設型であっても訪問診療による終末医療のほうが“いのちの仕舞い”方として、自然でホスピス的に優位にあるとするならば、その理由は何なのだろう。制度的な問題と属人的な問題を整理しにくい課題ではあるのかもしれないが、その点に関するドキュメンタリー映画の作り手としての視座が乏しく、小笠原医師礼賛に終始していたところが少々物足りなかった。

 四万十のような地方都市にあってさえ、小笠原医師の携わる終末医療に係る訪問診療の対象は、純然たる自宅療養型よりも施設型のほうが多いのが実態であるような様子が窺えたので、余計にそのような思いが強く湧いた気がする。折しも当日の新聞に「自宅暮らしが難しくなっても、病院ではなく「生活の場」で最期を迎えられるよう国も後押ししている」と報じている記事があって、見出しに「公費負担 抑える効果も」とあるのをみて、介護報酬が医療報酬より低い福祉現場の実態に乗じてのものとなれば、何だか割り切れない思いが湧いたりもした。無論それは、小笠原医師の取組みの問題点ということではないのだけれども。

 
by ヤマ

'18. 2. 1. TOHOシネマズ2



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