『ターシャ・テューダー 静かな水の物語』
監督 松谷光絵

 アメリカの絵本作家ターシャ・テューダーが亡くなったのが2008年で、生誕100年記念が2015年だというのに、制作年が2017年になっているのは、さすが<スローライフの母>と謳われた女性に相応しい追悼作だと妙なところに感心した。しかもアメリカ映画ではなくて日本映画だ。

 享年92歳の前年にあって矍鑠として人生を語り、庭仕事にも出、絵も描いていたターシャの姿を観ながら、人生の達人というのは、かような人物を言うのだろうと思わずにいられなかった。最初はニューヨーク中の出版社を回って断られたとの絵本作家として成功し、稼ぎの乏しい夫に替わって金銭的にも一家を支えていたようだが、その絵本作家への道を彼女に勧めたのは夫だったらしい。所与の生活を楽しむ視点やアイデア、金銭では購えない豊かさを創り出す術に長けていて、その豊かな実りをもたらしているものが、些事に渡る間断なき“自覚的な選択の積み重ね”であるとの指摘に、大いなる含蓄があったように思う。

 彼女とはおよそ次元が異なるし、また、分野がガーデニングやハンドメイドといったものではないものの、生き方の方向性としては、僕の抱いている人生観とけっこう重なるものがあるように感じた。在京大学のみ受験してまで上京しながらも四年で帰郷することになってからは生まれ育った土地から一度も離れることなく過ごしてきて、今で言うところのWLB(ワーク・ライフ・バランス)とかQOL(クォリティ・オブ・ライフ)を結果的に先取りしたような、人からは今時用語の“丁寧な暮らし”などと言われたりする日々を送っていることや、ケータイ文化の包囲網に対して孤塁を守っている偏屈に関して、なにも肩肘を張るつもりは更々ないが、自覚的な選択の積み重ねであることについては、それなりに自負もある。そんなこともあってか、ターシャの四人の子供のうち、長男セスの家族しか登場しないうえに、長男家族とは孫夫婦を含めてえらく親密に交わっていることに少々違和感を覚えるとともに、セスの語っていた幼時の思い出話の偉大さが丸々すべてではないような気がしてならなかった。

 友人によれば、長男以外の子供は、「母親の美学につきあうのはゴメンだ」と思ったのではないかとのこと。なるほど、むしろそのほうが自然だ。僕でさえ時に偏屈と見られるくらいだから、およそ次元の異なるターシャには並々ならぬ我の強さと完全主義的なものがあったに違いないわけで、近親者には辟易となることのほうが多かったのかもしれない。それからすれば、逆に長男の家族ぐるみでの過剰な親密さのほうが不自然なわけで、そのことへの違和感はさらに強まった。何らかの思惑が働いていたのかもしれない。

 それにしても、この日の集客の破格ぶりは何だったのだろう。高知にこれほど大勢のターシャ・ファンがいるとも思えないし、スローライフ信奉者が何かの弾みで口コミに動いたのだろうか。この手のと一括りにしてしまうのは少々乱暴だとは承知のうえで敢えて言うなら、確かに人生フルーツとか『マイ・ビューティフル・ガーデン』『リトル・フォレスト』といった“植物と食物に丁寧な眼差しを向けた作品”がドキュメンタリー映画、劇映画を問わず、昨年高知でも上映されていて、本作と最も被るところのある『人生フルーツ』は、相当な動員も果たしていたように思う。そして既に県下各地で上映されているにもかかわらず、『人生フルーツ』は、この3月に改めて高知市での再々上映が決まっているようだ。何が起こっているのだろう。

 
by ヤマ

'18. 1.23. 美術館ホール



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