『ゆれる』
監督 西川美和


 観終えた後、さまざまな解釈に心揺れる観応えが刺激的だった。橋も揺れる、想いも揺れる、記憶も揺れるという作品だ。そして、僕にとっては“罪悪感”がキーワードのように感じられた。

 観る人によって、いろいろに見えるのだろうが、僕には、兄稔(香川照之)の殺人を弟猛(オダギリ・ジョー)が目撃していたというのが事の真相だったように思えた。「智恵ちゃん、あれでなかなかしつこいだろう?」という稔の言葉に、「舌出せよ」などと言いながら激しく絡み合った川端智恵子(真木よう子)との先刻までの濃厚なセックスを咄嗟に想起したものの、それは酒の話であって自分の勘違いだったとその場では思っていたけれども、実際はそれが兄からの狡猾な鎌かけだったことを父勇(伊武雅刀)の何気ない一言で、猛は思い掛けなく知ってしまう。

 そのことを知る以前の猛が、父とは確執があり、自白もしているゆえに勝ち目がないという裁判を親族の情では引き受けてくれなかった弁護士の伯父修(蟹江敬三)に、少なからぬ金をおそらくは父に内緒で用立てて弁護に臨ませたのは、拘置所での面会で後に兄から言われた「自分が人殺しの弟になるのが嫌だったから」などというものではなく、兄が想いを寄せていることを知りながら、自分が智恵子にちょっかいを出したことで、彼女がのぼせ上がり、引いては兄に殺人を犯させてしまったように思える負い目の気持ちからだったような気がする。揺れる吊り橋の上で兄が智恵子を突き落とすのを目撃しながらも、自分の知る兄の人物像からは、その光景が信じられなくて見間違いである気がしてならないくらい、とんでもない事態を引き起こしてしまった真因が、きっと自分にあるとの思いが強ければこそのことだったのではなかろうか。少なくとも単純な兄想いなどではないように思う。



 そういう意味では、兄が知らないと思っていた秘密ゆえに負っていた罪悪感なのに、兄は素知らぬ顔ながら実は智恵子との一夜に気づいていたとなると、見間違いかとも思った兄の行為が紛れもなく殺人だったという気がしたに違いない。まして、兄が証言していたような気持ち悪がるような反応を見せられては、兄が逆上したのも無理からぬとも思ったのではなかろうか。しかしそうなれば、事故ではあっても死なせてしまったとの罪悪感で茫然自失となって殺人の自白をしたように見えていた兄が法廷でその自白を翻すのも、自分が無理して仕立てた伯父の弁護のなかで自分たちの想いに応えてくれてしていることではなく、そもそもが、先の狡猾な鎌かけにも通じる計算高さで事件に自分を巻き込むためのことだったようにも思われるという疑念さえ生じていたのかもしれない。そのうえで、「自分が人殺しの弟になるのが嫌だったからじゃないのか」などと言って挑発してくるばかりか、智恵子とのことは避ける形で、積年の恨みとして弟の計算高い狡さや身勝手さを容赦なく罵倒してきたから、猛が逆上したように見えた。稔が剥き出しにしてきた悪意と攻撃からすれば、「自分が人殺しの弟になるのが嫌だったから」との言葉には「お前を人殺しの弟にしてやる」との意図が反映されているとさえ思えるわけだ。

 拘置所に入ってからの稔の相貌すら様変わりしたように見える変貌には鬼気迫るものがあって、猛においてはさぞかしのものがあったに違いないのだが、当初、それが兄の抱えた“罪悪感”ゆえだと映っていたものが狡猾な計算高さに見えてきては、猛のなかで当初抱いていた自分の負い目というか罪悪感が“ゆれた”のも、無理からぬように思う。猛が法廷で決定的な目撃証言をしたのは、そんななかでのことだったように見えた。事件後の稔は、事件を起こした兄以上に、自分の知っている兄稔ではなくなっていると猛は思っていたに違いない。



 そうして思うに、稔にあれだけの変貌を遂げさせた背景には、智恵子と猛の情事が、稔からすれば、裏切りとも言えるだけの事情があったような気がしてならない。むろん猛は稔に明言していないし、智恵子も伝えてはいないので、証拠もないまま稔からは切り出せないわけだけれども、猛に掛けた鎌かけで稔は確信していたはずで、そもそもそれが狡猾な鎌かけとして稔の頭に浮かぶのは、紛れもなく彼が智恵子のセックスの激しさを知っていればこそだという気がする。さらには、猛との一夜に勘づいた後にも三人でハイキングに行きたがった稔には、それが一夜の情事であれば、モテない兄である自分は、そのことを水に流すだけの気持ちの準備もあったような気がする。なんで吊り橋のほうに行くの?という信じられない面持ちで智恵子の後ろ姿を眺める稔の表情が痛切だった。

 おそらくは、猛が東京に出てからの長い年月を掛け、田舎での二十九歳独身女性という言わば観念のしどころにまで至って、ようやく自分との将来を約せるところにまで持って来ていたのだろう。極端に数々の可能性には乏しいと思い込んでいる田舎暮らしのなかで、ここまで来ているものを棄てる気は毛頭なかったように思う。ところが、智恵子にとっては、猛との情事は一夜に留まらず、稔がようやく積み上げたものをいとも簡単に投げ出させるような火の付き方をもたらしたうえに、稔に対しては事もあろうに生理的嫌悪を示すような反応さえもたらした(意思ではなく反応として生じてしまうあたりの生々しさには原案・脚本・監督の全てを担った西川美和の女性なればこそのものがあるように感じる。)のだから、稔の味わった絶望感と怒りには想定外の激しいものがあったことだろう。物理的に突き落とされた智恵子同様に、人生から突き落とされたようなものだ。この後、彼が生ける屍状態か、でなければ、弟への怒りと復讐に燃えるかのいずれかの態度しか示せなくなったというのは、そういうことなのだと思う。

 されば、この出来事の直接的な発端は何であったのかと振り返ると、母親の再婚で独り暮らしになっている智恵子が、車のなかで、稔をアパートに入れたことはないのかと敢えてチェックを入れてきた猛に、おそらくは嘘をついて“田舎での二十九歳独身女性という言わば観念のしどころ”における最後の足掻きを試みて田舎から出て行こうとしたことにあるような気がする。智恵子の母が「あの子は、殺されるような悪いことを何かしたのでしょうか?」と猛に問い掛ける台詞を設えてあるのが利いている。むろん悪とか何とかではなく、自分が転嫁できることでもないけれど、あのとき、智恵子が断ってくれてたらとの想いが猛に訪れなかったとは思えない。高いところも揺れるところも苦手な兄が、なぜあの吊り橋を渡ったんだろうと思いを巡らせていた猛が智恵子と兄との間にそういうことを考えてもおかしくはないような気がする。



 突き落とされたと言えば、猛もまた、兄の仕組んだ狡猾な復讐の罠に乗せられる形で、法廷で兄の有罪を決定づける目撃証言さえせずにいられない心境に追いやられてしまうのだから、相当なものだ。法廷では「元の兄貴を取り戻すために」と言ったものの、刑期の七年間のなかでそれが果たせたとは思えず、早川家の経営するガソリンスタンドの従業員岡島(新井浩文)にやんわり詰られるまでもなく、結局のところ兄からの縁切り宣言に自分が応じて絶縁したことにしかなっていないことは彼自身が一番よく承知していることで、だからこそ、刑期を終えて出所する兄を出迎え、取り戻しに行くことができずにいたわけだと思う。

 ところが、最後に奇跡のような浄化が用意されていて、この作品が兄弟間の相克と絶望の物語には終わらない何かを残してくれているところが素敵だ。岡島に促されながらも兄の出迎えに行く気になれなかった猛が、亡き母の残した8ミリに映っている幼き遠い日のあの渓谷での家族の姿をじっと観るなかで、猛にとっての稔の取り戻しがようやくできたのだと感じられた。そのなかで蘇った事件の日の稔の姿は、彼が目撃したはずの突き落としではなく、智恵子に救いの手を差し伸べるという猛にとっての兄本来の姿で蘇っていたのが感動的だった。事実に対する記憶の正しさとか間違いとかは、最早あの時点での猛にとっては大きな問題ではなくなっているわけで、そのような姿で蘇ってくれる真実のほうが彼にとっての“取り戻し”として大きな意味があることを端的に示した効果的なイメージだったように思う。

 だからこそ、急いでポンコツ車を駆って稔の出迎えに出向いていた猛の姿には、裁判で兄を無罪にさせようとしていたときのように、今度は兄を有罪にさせた“罪悪感”がそうさせているという部分が微塵も感じられなかった。普通であれば、裁判に向けた奮闘には、罪悪感ではなく兄弟愛、出迎えのほうには、自分の証言が兄を刑務所送りにしたとの罪悪感ということになりそうなものだが、そうはならずに逆になっているところが見事で、そこに猛の真実が浮かび上がっているように感じられた。この鮮やかな対照が、この作品の醍醐味であり、作り手の演出力ならびに役者の演技力の賜物だったからこそ、この作品のキーワードが、僕にとっては“罪悪感”だというふうに感じられたのだろう。

 それにしても、父勇・伯父修・兄稔・弟猛、程度の差はあれ、早川の男みんなに共通する突如激するものが、逆上型パーソナリティであることを随所に周到に配しつつ、親の世代と子の世代とで、残った者と東京に出て行った者の兄・弟を入れ替えている配慮にも感心した。兄弟の物語となると、得てして兄だから弟だからとの観点から見られがちなのだが、残るのが兄というものではない提示を併せてすることで、兄・弟ではなく、出た者と残った者に分かれた兄弟との視点を明確にしようとする意図が働いているように思った。兄と弟の物語として観られるのと兄弟の物語として観られるのでは、いささか趣が違うような気がする。





参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
参照テクスト西川美和 著 『ゆれる』(ポプラ社 単行本)を読んで
参照テクスト:十年後に再見したときの映画日誌


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060803
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2006yucinemaindex.html#anchor001476
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0612_1.html
by ヤマ

'06. 9. 8. シネ・リーブル梅田



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