『ニッポンの教育(挑む 第二部)』
監督 筒井勝彦

 高知県いの町で、次代を担う子どもたちの教育を教育行政と一般行政とが一体となって“人づくりによる町づくり”として取り組んでいるなか、その実践の場を先導する教育特使に2016年春から就任している元小学校教員の菊池省三の姿を追ったドキュメンタリー映画だ。フェイスブックへの監督の書き込みによると、試写会当日の“午前3時28分に完成した本日上映版”とのことだ。

 第一部を観逃している僕からすれば、どういう経緯によって、いの町がかような取り組みに至ったかを知りたく思ったが、2016年一年間の菊地氏の取組みを観ながら、かつて“ゆとり教育”が目指していたであろうものに通じるものを覚えつつ、ゆとり教育が失敗した一番の原因を鋭く突いているように感じた。

 それは即ち、菊池氏が最も確信的に挑んでいると思われる“教育(行政・現場)における上から目線の排除”であり、教育理念に賛同する“実践者(現場教師)の養成”であったように思う。

 十三年前にニコラ・フィリベール監督のドキュメンタリーぼくの好きな先生を観たときに、「この作品で捉えられたロペス先生の提供している学校教育が、“形骸化していない”ゆとり教育ないしは総合教育であることを認めたうえで、必ずしも理想的だとは感じられない感覚を自覚させられて、少々狼狽した」と記した僕の目に、あまり違和感のない形で本作が映ってきたのは、知育に係る内容は変えずに方法論を見直す教育実践のように感じられたからなのかもしれない。むしろ内容的には、小学教科において“哲学”の領域に係るものを意識づけているようにさえ思われた。そして、菊池氏の提唱する“ほめ言葉のシャワー”の件を観ていて想起したのが円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』の映画日誌に記した僕の座右の銘にまつわる記憶だった。

 その一方で、映画的には、「"Too much harmony for me( 仲良すぎるわ )"と言って出ていくのもまた人間であることを描くのを忘れなかった」パーシー・アドロン監督の劇映画バグダッド・カフェに示されていたような視点も欲しいようには思った。

 また、この画期的と言える行政的な取組みを果たしている高知県いの町の紹介部分に関しては、紹介すべきは教室外での子どもたちの暮らしている生活や文化そのものであって、それが観光PR的な色合いの画面になってしまうと、せっかくの紹介部分が仇になってしまうように感じられたのが何とも勿体なく思われた。いの町サイドからの要請があったのかもしれないが、たとえ本末転倒にまでは至らずとも、これでは玉に瑕となることは避けがたく感じられた。加えて、締め言葉が繰り返される感じを残す編集にもう一工夫できないものかという気もした。

 それにしても、菊池氏が足を運ぶ実践の場が保育所から中学校と幅が広いことに感心した。この歳になると余計に強く感じることなのかもしれないが、子どもたちのキラキラした、気持ちの入った視線を真っ直ぐに向けている表情を観ると、何とも言えない幸福感を覚えて、心が浮き立ってくる。加えて、確かな手応えとしるべを得た教員たちの活き活きとした顔つきが爽快だ。いの町には確かな未来があると感じた。




◎ 一ヶ月後の追記('17. 8. 6.)

 7/9試写会で暫定版を観、いささか勿体なく感じられる箇所がいくつかあって、監督にも伝えてあった作品の完成版を同じ会場で観る機会を得た。映画は編集次第だということに改めて感じ入った。内容的には、ほとんど何も変えていないように思われるのに、一か月前に勿体なく感じられた部分がことごとく改善されていて、とても滑らかに違和感なく観られるようになっていたばかりか、終盤は構成自体も改変していて映画的な面白みも随分と増していた。

 ドキュメンタリー映画だし、出演者の承諾を得るのが大変だったのではないかと思われ、観賞後に訊ねたら、やはりその通りだったようで同町教育委員会担当者の教員の方がとてもよくやってくれたおかげだと話していた。場面の問題ではなく、本作の映画としての志の部分を理解してもらえたのだろう。

 暫定編集版と完成版との両方を観る機会というのは、滅多に得られるものではないので、映画におけるポストプロダクションの重要さを改めて知らされた気がする。なかなか貴重な体験だった。  
by ヤマ

'17. 7. 9. いの町役場本庁舎1Fいのホール



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