『バグダッド・カフェ』(Bagdad Cafe)
監督 パーシー・アドロン


 二人が初めて出会った時、ジャスミンは汗を、ブレンダは涙を拭いながら向き合っていた。こんなふうに汗と涙が一つの画面に納まっているのは、ちょっと珍しくて面白いが、これは決して汗と涙の感動物語ではない。異国の地で亭主と喧嘩別れして車を降り、焼けつくハイウェイを当てもなく歩いてかく汗は、目指すゴールとも沿道の声援とも縁のない疲労だけの汗であり、ぐうたら亭主と身勝手な子供たちを食わせるためにしがないモーテル・カフェで一人懸命に働けど、事態は一向好転しないばかりか、その苦労を誰にも理解されなくて流す涙は、感情の高揚とも情緒の発露とも縁のない虚ろな涙である。それが即ち、目標も支えも当てもない人生に疲れ果てているジャスミンと情けない人生に足掻きながらも何一つ変えられないでいるブレンダとの出会いだったのである。

 初めにこの場面があるからこそ、終りのほうで、二人が向き合い、視つめ合う場面がぐっと生きてくるし、ジャスミンがカフェをなかなか出ていかないことや二人の中年女がやがて強い絆で結ばれることに素直に共感できるのであって、この作品が安っぽい人情物と大きく違うところである。ぐうたら亭主が出て行った時に泣いたブレンダがジャスミンとの別れでは、比べようもない喪失感にもかかわらず、決して涙を見せなかったし、ジャスミンもブレンダと出会ってからは、どんなに汗をかいても、溜息をつきながら拭わないではいられないような汗はかかなくなる。この作品は、人と人との出会いの持つ可能性について、少し夢を与えてくれる。

 しかし、この類のない魅力で惹きつけるジャスミンも、最初からルディが絵に描いたような後光のさす聖女だったわけではない。人生に疲れた行き場のない只の中年女が、仲間外れのままではいたくなかっただけなのだ。それがバグダッド・カフェの人々との関わりやルディの描いた自分についてのヴィジョンから受けた啓示によって、まさにそのようになっていく。そこには、人はひょんなことから生れ変り得るなどという安直な人間観ではなく、人が変り得るとするならば、人と人との関係性のなかの奇跡的な相互作用によってだけだということをよく知る者の思いがある。それはマジックにも等しい不思議な出来事で、タネはあっても誰にでもできることではなく、決してひとりでに起こることではない。

 しかしまた、それを言葉や論理で語っても空しいことも作り手は知っている。それはマジックで言えば、タネ明しや解説をするようなものなのである。タネ明しとその解説で27台ものトラックは、集まりやしない。マジックショーは、タネが判かろうが判かるまいが、見せて沸かせて驚かせてこそのショーなのだ。そのことをよく知るアドロン監督は、なかなか上手い見せ方をした。先ず太ったドイツ女と貧しい黒人女という設定、ジグソー・パズルにでもなりそうなファッショナブルでセンスの良い構図と凝った色彩の映像、自分の出番を窺うサルや連作を重ねるルディ、二つの太陽の日差しを浴びるジャスミンなどのシーンの繋ぎやカット挿入の絶妙さ、音楽の使い方の的確さ、なかでも主題歌コーリング・ユーの絶品とも言える名曲名唱ぶり。これくらいに見せてくれれば、人も集まるのである。しかし、これは大事なことなのだ。多くの人が集まり、そこに何らかの関係性が生まれ、マジカルなパワーが発生したからこそ、ジャスミンとブレンダだけでなく、店のことを顧みもしなかったフィリスまでが嬉々として働くようになり、自分のためのバッハしか弾かなかったサロモが客のためにピアノを弾くようにもなるのである。ルディに至っては、年甲斐もなく求婚までし、かくして他所者だったはずのジャスミンは、バグダッド・カフェの家族の一員となる。

 このような人と人とのふれあいの温かさを描き、血縁や人種を越えた家族のあり方にボーダーレス時代の新しい家族像を示しつつ大団円に終っても、この作品は、単にオプティミスティックなメルヘンには留まっていない。しかし、アドロン監督は、そういう大団円を断個拒否し、"Too much harmony for me ( 仲良すぎるわ ) "と言って出ていくのもまた人間であることを描くのを忘れない。その視点のクールさは、こすっからく自分の帰るタイミングを測るサルの無邪気な卑屈さをギャグにした抜かりのなさと併せて、彼が只の見せ方の上手い芸人ではないことを物語っている。




【追記】'23. 9. 8.
 BSプレミアム録画で、『バグダッド・カフェ<ニュー・ディレクターズ・カット版>(Out Of Rosenheim)['87→'08]を観た。オリジナル版は、三十三年前に自分たちで上映したお気に入り作品だが、17分長くなったというディレクターズ・カット版は未見のままだった。
 今回再見しても、どこが長くなったのか判然としないが、なんとなく最初のジャスミン(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)とムンシュテットナー氏との喧嘩別れの場面ではないかという気がする。夫のトランク鞄と取り違える前のやり取りがあれほど長かったように思えなかった。また、ブレンダ(CCH・パウンダー)の元を夫のサル(G・スモーキー・キャンベル)が立ち去る前の彼女の荒れ模様も、これほど長くはなかった気がした。
 映画そのものに対する感想は、三十三年前とほとんど変わるところはないが、再見して驚いたのは、日誌に綴っている女彫師デビー(クリスティーネ・カウフマン)の台詞がToo much harmony for meではなく、Too much harmonyだったこと。僕は、for me のあるほうがいいような気がする。今回の字幕はなれあいすぎよだったが、これは仲良すぎるわのほうがいいと思う。そして、ジェヴェッタ・スティールの歌う♪コーリング・ユー♪は、やはり名曲名唱だと思った。
 細部の比較はできなくても、これなら、17分短いというだけでも、91分に凝縮してあるオリジナル版のほうが優れているような気がする。当時は、まだフェルナンド・ボテロを知らずにいたけれども、ジャック・パランス演じるルディが絵に描いたような後光のさす聖女と当時の日誌に記した裸婦は、まさにボテロのイメージだった。
by ヤマ

'90. 2. 2. 県民文化ホール・グリーン



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