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『ぼくの好きな先生』(Etre Et Avoir) | |||||
監督 ニコラ・フィリベール | |||||
知育・徳育・体育からなる学校教育において長らく続いてきた知育偏重がもたらす問題状況を無視できなくなったなかで、ゆとり教育や総合学習を題目にして教育改革を行おうとしたことが、求めるメリットは得られぬままに知育水準の低下のみが目立つ形で終わり、国民的批判に晒され、日本の学校教育のあり方が方向性を見失っている。そんななかで、混迷に乗じる形で、教育基本法改正を前面に押し出した胡散臭い徳育強化が国という名のエスタブリッシュメントへの忠誠心を愛国心の醸成の名のもとに企図されているのが、今の学校教育が直面している危機的状況だという認識が僕のなかにある。 僕個人の感覚としては、旧来的な知育偏重の流れも、形ばかりのゆとり教育も、愛国心の押し付けも、いずれも今後の日本を思ううえで勘弁願いたい方向性だと感じるなかで、自分たちが身を置いてきた、知育偏重の流れにはあっても“偏差値導入以前”の状況がまだしもだったというのが実感だ。僕らの時代にも「受験戦争」や「四当五落」などという愚にもつかぬ無責任な言葉がメディアによって流布され、煽られていたのだが、そのことに対して、同調志向が強く極めてメディアに流されやすい特性が、国民性と言えるほどに顕著な日本社会において、今の混迷を招かざるを得ない問題状況に立ち至るまで知育偏重の先鋭化を野放しにしてきたことの罪は重い。 だが、そんなふうに考える僕の眼から観ても、この作品で捉えられたロペス先生の提供している学校教育が、“形骸化していない”ゆとり教育ないしは総合教育であることを認めたうえで、必ずしも理想的だとは感じられない感覚を自覚させられて、少々狼狽した。3歳から11歳までの13人のクラスメイトを構成する田舎の複式学級なれば、限界があるのは止むを得ないことだが、小学校6年生の算数が直径と半径の認知だったり、九九をさらいながら二桁の掛け算に呻吟するものだったりすることに耐えられなければ、形骸化していないゆとり教育や総合教育を得られないとすれば、とても日本社会で実現できることではないように思う。田舎の生活のなりわいに密着している牛の種別を知ることは、確かに教科書的に全国共通の教育課程による学習からは漏れ落ちていきがちなものだし、そもそも人が備えるべき知識は決して百科事典的に網羅される必要はないものなのだから、それぞれの現場で教育者の裁量によって選択されてしかるべきことだろうとは思う。所詮学校教育の知育は入り口に過ぎず、特に初等教育においては入り口自体の充実よりも、そこから先へ進むことへの魅力を誘うものであることのほうが遥かに重要だ。登りたい意欲さえ促し得れば、登山口が何処からであっても至る頂上にさしたる違いはないとしたものだからだ。しかし、これほど悠長であっていいのかとの不安は否めない。 その一方で、教育には何よりも対話が必要で、年少時には殊更に教える側に忍耐力が必要であることは、この作品が最も入念に捉えていたものだ。『音のない世界で』で格別に強い印象を残してくれていたニコラ・フィリベール監督のこの新作映画を見ながら、今や長男が成人するに至っている我が子三人と親しんでいた遠い日々を改めて僕に思い出させてくれるだけの辛抱強さで、ロペス先生は生徒たちに接していた。その姿は、目の当たりにしてみて今の自分にはかつてのあの日々のように手の掛かることは到底再びやれそうにはない気がしてくるほどに、生々しく想起できるだけのものであった。 それでも、ロペス先生の複式学級を必ずしも理想的な学校教育だとは思えないくらい、教育制度に知育を求めることが身に染みついていることを自覚させられるとともに、その両方を学校教育に求めることがほとんど過剰すぎる無理難題であることを思い知らされたような気がする。日本の教育制度や教職員への不満や非難を重ねる一方で、職業人任せにしたまま、制度としての教育や子どもに対して過大な欲求を抱いていることに無自覚な大人たちこそが反省し、自戒すべきことを促す要素をきちんとはらんだ作品だったように思う。親が観て、考え直さなきゃいけない映画だ。 | |||||
by ヤマ '04. 3.25. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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