『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』(War For The Planet Of Apes)
監督 マット・リーヴス

 観賞時の日誌の冒頭に「素晴らしい」と記したリブートシリーズ第2作の前作には及ばずとも、シーザー(アンディ・サーキス)シリーズの『猿の惑星』は、やはり面白い。オリジナルシリーズの傑作猿の惑星['68]に登場したノヴァと同名の少女が本作に現れ、彼女自身がオリジナルシリーズのノヴァであることには時間的ズレがあるにしても「そうか、そういうことで人類は言葉を失ったのか」と提示された解釈に納得させられた。ちょうどリブートシリーズ第1作が、なぜ猿は言葉を手に入れることができたのかの回答になっていたことに呼応していて感心した。

 また、名前のない大佐(ウディ・ハレルソン)の名はカーツに違いないと地獄の黙示録['79]を思わせ、まるでゴラムのようなバッド・エイプ(スティーヴ・ザーン)にはロード・オブ・ザ・リング['01~'03]を思った。上手な借り方をしてみせたことで、なかなかスケール感のある仕上がりになっていた気がする。

 戦争では何も得られず、失うばかりなのに、戦争に向かってばかりの霊長類の業が、エンタテインメントの王道のような作品に深く刻み込まれていたところが天晴れだ。オープニングの戦闘場面からの俯瞰は霊長類を見下ろしている神の視座かと思ったが、観終えて思うのは、あそこでヘリコプターの音がしていないのが不思議なくらい“黙示録”だったということだ。

 本作においてノヴァがモーリス(カリン・コノヴァル)に育まれる人類という形で現れた以上、オリジナルシリーズとは異なる“猿の惑星”として、地球はこの後なっていくのだろうが、それがモーリスから「コヴァになってしまった」と言われるようになる前のシーザーが思い描いた共存社会だったのか否かは定かではない。同じ大佐でも、本作の大佐とテイラー大佐(チャールストン・ヘストン)とが大きく違っていたのと同じくらいの違いは、シーザー亡き後の猿の惑星にはあるのではないかという気がする。

 人間は己が歴史から学ぶことが実に不得手であるが、猿は人間から学ぶことに長けていたから、少なくとも本作の大佐たちが人間同士で引き起こしていたような戦争を猿同士では行わないはずだと思う。第3作となる本作のタイトルから、てっきり人間と猿の最後の戦いが繰り広げられるのかと思っていたら、ラストで大戦争をやっていたのは、相変わらず人間同士だった。やはり最も野蛮で始末に負えないのは、人間なのだろう。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-d7d8.html
 
by ヤマ

'17.10.17. TOHOシネマズ7



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