高知シネマフェスティバル '99“映像の夢、いまむかし シネマの対立軸”


『愛の渇き』['67] 蔵原惟繕監督
『猿の惑星(Planet Of The Apes)』['68] フランクリン・J・シャフナー監督
『カラー・オブ・ハート(Pleasantville) 』['98] ゲーリー・ロス監督
『視線のエロス(La Femme Defendue)』['97] フィリップ・アレル監督
『アベック・モン・マリ』['98] 大谷健太郎監督
 これが最後になるかもしれないとの思惑を密かに孕んだ、第十回目の今回は、“映像の夢、いまむかし シネマの対立軸”と題して三十年前の邦画と洋画が一本ずつ、現在の日本映画とフランス映画、そして、今と昔を繋ぐようなシチュエイションで撮られた新作アメリカ映画というラインナップとなった。いずれの作品もが人間の在りようというものを問い直すような視点を内在させた映画である。

 『愛の渇き』は、原作が三島由紀夫だけあって、いかにもそれらしい過剰な自意識とナルシズムが、息苦しいほど濃密に漂っていて圧倒された。財界に隠然たる力を持つ絶対的な家長である義父の大邸宅に、義兄一家とともに住まい、夫の死後は義父と内縁関係にある未亡人悦子が、使用人の青年との間で身勝手な妄想と嫉妬に、独り善がりで傷つき動揺した末、自分の立場と身を守るために思わず青年を殺してしまう羽目になる。そして、「私がこれほど苦しんだのだから、お前はこれくらいの罰を受けて当然なのよ」と傲然と言い放っていた。何とも恐ろしい映画だ。ある種の女性において、いかにもありそうな感覚と論理を鋭く浮かび上がらせているからこそ、恐ろしいと感じさせるのだろう。
 しかし、全編通してあまりにものものしく、いかにも思わせぶりで、意味ありげなショットを多用し過ぎていて、少々欝陶しかった。一家まるごと何処かしら変な人物たちばかりだったのは、生活不安のない有閑階級における人間性の退廃といったものを描きたかったのだろうという気がするし、あるいは生活にかまける必要がなくなったときに衣を脱ぎ捨て立ち現れてくる人間の本性とはこういうものだということなのかもしれない。

 同じ時期のアメリカ映画『猿の惑星』は、少年期にも観た作品だが、細部は覚えていないつもりだったのに、映像の流れに身を任せていると次の場面、次の場面が映像で目にするタイミングのほんの僅か手前で、次々と蘇ってき、観ているときの感覚に奇妙な味わいがあった。既視感のように観た直後に起こるものではなくて、次の場面を目にする直前に予見のごとく記憶とは違う形で湧き上がってくるのだ。これはなかなか新鮮な体験で、何とも楽しかった。
 当時の時代性を濃厚に反映しながらも、年月の経過に充分耐え得て、今なお、同時代性をもって訴えてくるものがあるという普遍性を宿した見事な作品だ。しかも、あくまで娯楽作品としてのスタイルを貫き、これだけ技術革新の目覚ましいSF映画という分野において、いささかも色褪せない作品なのだから大したものだ。つい先頃、ジョン・カーペンター監督の『ダーク・スター』なんていう70年代の作品を観て、軽い乗りでパロディっぽく撮られ、当時それなりに支持されたのだろうが、今になって上映されることで晒される無残さというものを感じていただけに、『猿の惑星』には改めて感心させられた。

 もうひとつのアメリカ映画は、古き良き時代の白黒TVドラマとして非現実的に造形された世界に吸い込まれ、そこで暮らすことになった今時の高校生が、時代感覚や生活感覚の違いのなかで起こす騒動をコミカルに描いた『カラー・オブ・ハート』だ。ちょうど今回のシネフェスの惹句にもある“いまむかし”を絵に描いたような作品で、カイロの紫のバラ(ウディ・アレン監督)を思い出させる部分のある映画でもあった。しかし、アイデアと技術のほうが前面に出てしまい、もう少し膨らんだであろうはずの味わいがいささか乏しく萎んでいて、せっかくのアイデアと映像技術を生かし切れていなかったのが残念だ。

 フランスの現代作品『視線のエロス』は、若い女ミュリエルをたぶらかす中年男フランソワの主観キャメラで全編綴られた映画で、鏡に映った自分の姿を見るという形でしか男の姿も映らない。特に面白かったのは、どういう話をしているときに画面からミュリエルの姿が消えるのかというところだ。会話の最中に思わず視線を外して喋る気弱な不実さが視線キャメラのありように窺われる。フランソワの視線はどういう言葉を発しているときに何処に向けられるのかを追うことがそれなりに興味深かったのだが、そういう意味では、もっと濃密な視線が浮かび上がってきても良かったのではないかと思う。  ミュリエルのしっかりした真面目さとムラっ気、自分を失うまいとしつつもうまくコントロールできない部分も含めて、若い女のあやうさとけなげさがことさらに魅力的に映るのは、男の側の視線だから無理からぬ話だ。かたやフランソワのほうは、同じように自分を失うまいとしつつもうまくコントロールできない部分について、いかにも中年男らしい小心さと厚かましさや身勝手さが濃厚で、いささかも美学が感じられずに、同輩として情けない思いをした。二人の根本的な違いは、自分を失うまいとコントロールしようとしたメインの対象が、ミュリエルは自分自身だったけれど、フランソワは相手だったことによるのではないかという気がする。

 今回の五本の作品のなかで最も鮮烈な印象を残したのは、日本映画の新作『アベック・モン・マリ』であった。現代の人間観において次第に重要さを増してきているジェンダーの問題において、これほど自然体でありながら鋭くアクチュアリティを感じさせる新しい人間像を提示した映画を観たのは初めてだという気がする。
 伝統的な価値観による男らしさや女らしさというものは、一方ですっかり解体してしまったと言われながらも、そのことに批判的な視線が頻繁に投げ掛けられるのは、そういう人間観が根強く蔓延っているからにほかならない。ぽっぽや(降旗康男監督)のようにそれなりに見応えのある作品ではあっても、ある意味ではアナクロニズムとしか言いようのない人間観によって、ノスタルジックな憧れを誘ったりする映画が支持され評価されるのは、つまりはそういうことなのだ。
 それらを古い世代として、新しい世代を捉えるときは大概の場合、失われた“らしさ”を嘆いていたり、理解しがたい宇宙人やまるきり別な生き物として受け入れるしかないと諦めていたり、いずれにしても批判的な視線でもって捉えるか、そうでなかったら、古いジェンダーの桎梏から解放された新しい人間像として、妙に構えたある種のかっこよさで装飾し、賞揚していたりするものが殆どであったように思う。一見したところ、相い反するもののように見えて、その実、どちらもともに伝統的なジェンダー観にとらわれたものだと言える。
 この作品には、失われたとか打ち破ろうとかいう批判や賞揚といった形の構えた視線が何処にもない。旧来とは異なる男女観をどうこう言うのではなく、それ自体を前提として、きわめて自然なまなざしで男と女の姿を捉えたからこそ、そのなかに新しい人間像が息づく形で浮かび上がったのだと思う。これはけっこうたいしたことで、現代の人間像として“目から鱗”的な新鮮な発見と感銘があった。


*アベック・モン・マリ
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/acinemaindex.html#anchor000078
by ヤマ

'99.10.10.~10.11. 県民文化ホール・グリーン



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