『猿の惑星:新世紀(ライジング)』(Dawn Of The Planet Of The Apes)
監督 マット・リーヴス


 素晴らしい。戦争がなにゆえ起こり、どうして凝りもせず繰り返すのかを、これほど分かりやすく描いた映画はそうそうあるものではない。

 人間とサルという異種を、異人種なり異教徒なり異国人に置き換えればいい。戦争など望んでいないと言いながら総体としては突き進んでいくことになる状況に分かれ目は幾度もあることや、そもそも端緒を開いた者さえも思いは決まって防御から始まっていたり、闘いに携わるうちに変質していき、攻撃行為が攻撃性を駆り立てていくさまに実に納得感があった。

 己が正しさというものに対して揺るぎのないことのタチの悪さが浮き彫りになるとともに、臆病者ほど攻撃性に向かうことや、悪貨が良貨を駆逐するがごとく、一部の威勢の良さが大多数の穏健を押し流してしまう時流の怖さといったものも織り込まれていて感心したが、僕にとっての一番は、やはり、コバ(トビー・ケベル)の動機の最たるものがジェラシーであることを窺わせていた点だったように思う。ブルーアイズ(ニック・サーストン)を押し流した動機としてクマに襲われた時の自身の怯みに対する負い目を偲ばせていたことにも感心した。

 それにしても、かつての映画なら迎え得たはずのめでたしめでたしが、リアリティとして、もはや許されなくなっている時代の現況というものが如実に表れていて、エンディングショットでのシーザー(アンディ・サーキス)の鋭い眼光に、哀しくも怖い気にさせられる作品だったように思う。

 コバがシーザーに向けていた敬愛に対して、もしシーザーがコバを満足させるように応え得ていて、コバに「自分よりも人間のほうが好きなんだ」との想いを抱かせることで“人間に対する憎しみの感情”を掻き立ててしまうようなことが起こらなかったら、シーザーは、エンディングショットで見せていたような眼になることはなかったはずだ。しかし、シーザーの想いとは裏腹に、彼なりにサルのためを思っていたコバに対して、結果的にはむしろ屈辱を与えてしまうことになり、彼に敵意と野心を植え付けてしまう。そして、人間とサルの全面戦争に向かう前に、シーザーとコバが敵対せざるを得なくなり、「サルは(人間と違って)仲間を殺さない」と言っていたシーザーをして「コバはもうサルではない」と言わせるようになっていた。

 では、シーザーをエンディングショットのような眼の持ち主に変えたのはコバなのかというと、決してコバ独りのジェラシーや野心がもたらしたものでも、シーザー自身の自業自得でもない。やはり、掛け替えのない仲間を殺し殺されした戦闘が最も大きく作用しているわけだが、それにもかかわらずとも、それゆえにとも言える形で、決然と人間との全面戦争に向かうしかなくなったことを覚悟するシーザーに凄みがあった。

 シーザーの変貌とコバの変貌のどこに違いがあるかは一口に言えるようなものではないのだが、確かに違っていたように思う。コバの変貌が私心から始まっているのと、シーザーの変貌が覚悟から始まっていることが最も大きな違いであるように感じた。

 サル側でのシーザーとコバの対照と同様に、人間の側にも興味深い対照が設えられていて、コバとは異なる形でありながら戦闘を厭わない点では相通じるドレイファス(ゲイリー・オールドマン)と、勇敢なるオプチミストとも言うべきマルコム(ジェイソン・クラーク)の対照が効いていた。ともにサルと人間の共存を求める存在でありながら、マルコムにあってシーザーには窺えなかった資質を僕は敢えて“勇敢なる楽観主義”と受け留めたが、勇敢なるペシミストたるシーザーが見せたような眼光をマルコムは、たとえ銃器を人間相手に構えることになっても、決して見せるようにはならなかった。次作で、マルコムとシーザーがどのような形で対峙することになるのかが興味深いのだが、何だか次の作品を観るのが怖くなるようなエンディングショットだった。たいしたものだ。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
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推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
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by ヤマ

'14.10.15. TOHOシネマズ4



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