『パッセンジャー』(Passengers)
監督 モルテン・ティルドゥム

 随分と乱暴な話と運びなのだが、不思議とさほど気にならなかった。主題的にはSFではなく、孤独と幸福についての哲学なのだろうという気がしたからかもしれない。眠り続けて何も知らないままに瀕死の危機を迎え、且つ回避した人々に、何だか今を生きる人々すべてが重なるように感じたおかげで、「見も知らない人々の劇的で奇跡的な下支えがあってこその今現在なのだろうな」という感慨を覚えることができた。“宇宙船地球号”というフレーズはもとより人口に膾炙しているものだが、そのパッセンジャーでありクルーでもあるはずの僕には確実に、誰かに或いはシステムに委ねたままで無防備に眠りこけている部分があるような気がした。

 宇宙の遥か彼方の星への移住のための120年の眠りから一人だけ途中で目覚める事故に見舞われたジム(クリス・プラット)が、話し相手はロボットしかいない孤独に耐えかねて、苦悩しつつもオーロラ(ジェニファー・ローレンス)を道連れにして目覚めさせたことの是非は問うまでもないことながら、罪ではあっても咎めが酷なものであるように描いていたところが目を惹いた。パッセンジャーではないクルーのガス(ローレンス・フィッシュバーン)が束の間目覚め、程なく死んでいく形で登場することの意味も一に掛かってその点にあり、ジムに対して一人で耐えていた期間の程を問い質していた点が重要だ。

 四年前に観たライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日['12]でも提起されていた“他者の命を奪わなければ生存できない人間という存在の抱えている根源的な罪”というものを、食の部分を剥ぎ取るばかりか、ヴァーチャルであれば娯楽すらも欲しいままにできる環境に置いたうえで、孤独にのみ焦点を当てているところが面白かった。例えば“王なる者の孤独”といった形で、多くの人に囲まれるなかで身に沁む孤独を描いた作品は珍しくないし、誰ひとり傍に人間のいない絶対孤独を描いた秀作はキャスト・アウェイ['00]オデッセイ['15]に限らず観覚えがあるのだが、食うために殺す罪ではなく、まさにオーロラが明言したような“当人の意思に反した蘇生という殺人”を犯すことが、死にも等しい孤独を癒すためならば同様に許容されるべきものなのかを問うている部分が興味深かった。

 そしてまた、手応えに満ちた形で味わう幸福感というものの人における儚さ脆さについて、目に見える部分においては何一つ変化していないままにあっても、事情一つ知るだけで絶頂からどん底に落ちてしまう人間というものの心許なさを炙り出していた点が目に留まった。それには「二人の間にはもう何も秘密はない」との言葉の意味をアンドロイドのロボットだとあれだけハイレベルでも真に解することのできないことが作用して、急転直下をもたらしていたところが気に入った。人型ロボットのバーテンダーであるアーサー(マイケル・シーン)に「機械の癖に約束を破った」などと怒り出さないジムの人物造形がいい。事実の前に謙虚で“オールタナティヴ・ファクト”などと言い出さないことこそが“人柄としての誠実の証”であるのは、普遍的な真実だと思う。

 加えて「人が生きるうえでの最大の幸福は、その願い求めた夢を叶え成功を得ることだ」としがちなハリウッド映画にあって、“オールタナティヴ・ファクト”ではない“オールタナティヴ・ハピネス”を提示していたことにも心惹かれた。やむなく犯した罪への言い訳や言い逃れを一切せずに事実に対して誠実に向き合うジムの態度があってのことなのは間違いないが、再び所期の夢を叶えるチャンスを得たなかでの顛末には素朴な納得感があった。単なる物語上の予定調和とならないように施されていたと思しき“地球に残してきた二度と会うことのない親友の動画を観て偲ぶ場面”が利いていて、あれがあってこそのオーロラの最後の選択だと思う。遠い見果てぬ夢よりも、今そこにいる大切に思える人、というのは、選択として誤っていないような気がする。少なくとも彼女においては、結果的には88年後に目覚めた後に書く小説以上におそらくは価値ある記録というものを残し得たのだろうし、更には記録以上のものを創造し残し継いでいるように映し出されていたから、その選択は間違いなく誤っていなかったように思う。
 
by ヤマ

'17. 3.30. TOHOシネマズ6



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