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『沈黙-サイレンスー』をめぐって | |||||
「映画通信」:ケイケイさん ミノさん ヤマ(管理人) | |||||
【ケイケイさん掲示板】2017年 1月29日(日)00時22分~ 2月 5日(日)10時29分
(ミノさん) ケイケイさん、こんばんは~。 今日というか、今朝、アサイチで『沈黙』を見てきました。疲れました(笑)。3時間あるんですね!これ。キリスト教の映画って、必ずスプラッタで、あまり好きじゃないのですが、これも御多分にもれず…ご、拷問シーンが多くて…目をつぶってました…。 で、レビューを書きましたが、かなり、ちょっと、これは絶賛系の人とは全然違うトーンで。映画としてはさすがに格調高いのですが…どうしてもエンタメに慣れてしまっているのか、何か最後に驚くようなサスペンスな仕掛けをつい、期待してしまう私(汗)。(そういう映画じゃないって) というわけで、もう書き疲れてしまいましたので、休みます。ケイケイさんのレビューも明日拝読しまーす、ではお休みなさい~ ヤマ(管理人) ケイケイさん、ミノさん、こんにちは。『沈黙-サイレンスー』、観ましたよ。いつになくほぼ同時公開状況なのだから、遅れてはならじと早速観てきました。でもって、速攻で映画日誌にして、先ほどアップしましたよ。 (ミノさん) おお~ヤマさん、拝読しましたよ! 激しく共感です~。 ヤマ(管理人) ありがとー! (ミノさん) うんうん、私も、転向のところで、アカとか官憲の取り調べみたいだな~って思っていたことを思い出しましたよ。60年代に発表されたとなれば、重ね合わせられますよね。 ヤマ(管理人) でしょう? スコセッシはともかく、遠藤には間違いなくあった気がします。 (ミノさん) あと、最後の、キチジローのエピソードとか、原作にない追加は、やはり、私も違和感ありました。スコセッシは、熱心なクリスチャンなので、やはり「信仰の敗北」は認めたくなかったのでしょう。しかし、あれで妙に、宗教的プロパガンダを見せられたような気になった人は私だけではなかったような…。 ヤマ(管理人) それで言えば、僕は宗教的プロパガンダとは思わなかったんですよ。むしろ、クリスチャンが30年がかりの宿題を仕上げるうえでは、そここそが肝だろうと。日本人の遠藤が、何度も何度も神を捨てながらも、結局は棄て切ることのできない日本人キチジローを描いていたことに驚き、おそらくは感銘を受けたに違いないスコセッシが、その遠藤の心を汲めば、外国人宣教師のロドリゴの今わの際に神への想いがあったことを絵にして見せるのはむしろ必然で、違和感も何もありませんでした。 (ケイケイさん) あぁなるほど。スコセッシの苦節28年を支えたのは、実はキチジローだったんですね。だから、観客にも彼の存在が深く届くわけですね。 ヤマ(管理人) だから、ラストに違和感はなかったのだけど、キチジローが隠し持っていた聖画の場面は、あれが見つかることで、彼が引っ立てられる形での筋立てにまでなっていたので、ロドリゴの十字架と違って「想いを絵にして見せた」では済まない形になっていて映画的に違和感を覚えたし、原作の遠藤がそういうあからさまな形でキチジローの信仰(といっていいのか)を描くはずがないと思ったのでした。 (ケイケイさん) 私はあのシーンは良かったです。ずっとキリスト教のお話というより、弾圧される一宗教の物語として捉えていたので。 キチジローが棄教した後もロドリゴを追い求め、「パードレ」と呼んだのは、キチジローのなかでは、ロドリゴ=キリスト教だったからだと思います。キチジローにしたら、ロドリゴが生きていてくれる、それだけで良かったと思うんですね。棄教した自分を追い求めるキチジローの姿は、ロドリゴにとっても、棄教を自分のなかで納得させるうえで、とても重要だったと思うんですね。お互い救われた関係だったと思います。そういう思いが、「ありがとう」という言葉で、溢れたんだと思います。 私はすごく美しいシーンだと思いました。 (ミノさん) そうですね。最終的には相互扶助の図になっていましたね。キリストとユダの図式なのかしら。 (ケイケイさん) うんうん。監督もキチジローはユダを想定しているって、書いてました。そうですねえ~。 ヤマ(管理人) 僕の書棚には、狐狸庵もマンボウも生息していませんが、遠藤周作の本は14,5冊あります。ケイケイさんが映画日記にお書きの「日々の生活に苦しんでいればこそ、来世への思いに駆られる」というのは、そのとおりだろうと思いますね。 (ケイケイさん) 以前、仏教徒の人とお話していて(何宗か忘れた)、仏教では現世で辛くても、来世で幸せになれると思えば、現世でどんなに辛くても耐えられると仰るんですね。当然私は納得できず、現世で救われなければ、意味ないじゃないかと思いましたが、だいぶ年上の方なので、言わず仕舞い。キリスト教的に、死ねば天国のほうが、納得しやすかったのは理解できました。 ヤマ(管理人) もちろん「現世で救われる」に越したことはないのですが、どこにも救いがないことに耐えられる人はいないのだと思います。できれば、何とかして、現世のどこかに救いを見い出せればいいのですが、そうはできない人もいるわけですよ。そういう意味では、『沈黙』に描かれた人々の現世の辛苦は理解しやすいとおっしゃるのは、よく判ります。 -------長崎奉行井上筑後守------- ヤマ(管理人) ところで、映画日記にズバリお書きですが、長崎奉行井上筑後守、観応えありましたね~。 (ケイケイさん) 造形も、イッセー尾形の演技も、ともに素晴らしかったです。不気味なのに近寄り難いでもなく、魅入られそうな風情だったので、総称して「懐深い」と書きました。 ヤマ(管理人) いい形容ですね。その懐の深さを作ったのがまさに他ならぬ信仰体験だったように思えるところが、この作品の懐の深さですね。原作の井上筑後守がどういう人物像だったのか最早、記憶にないのですが、本作での描き方を観る限り、スコセッシは遠藤の描いた井上筑後守に強く魅せられたのだろうと思ってました。そしたら、丸山さんから、最初は高倉健にオファーが来ていたらしいと知らされて、唖然(笑)。スコセッシ、何を考えていたのだろうと矢庭に疑心暗鬼。だって、イノウエ様の人物像は、健さんのキャラとは正反対とも言うべきものでしたよねー。健さんをキャスティングした際の演出プランはどのようなものだったのだろう??? (ケイケイさん) これはあんまり囚われなくても、いいんじゃないですかね? ハリウッドの監督ですから、当時なら『ブラック・レイン』で一躍アメリカで名を挙げたのが、健さんだったし。健さんがどういう立ち位置の人かとか、あんまり関係なかったんじゃないかなー。今回、時代が下ってイッセー尾形をキャスティングしたところに、映画の世界もグローバルになったと、私は見たんですが。なんせ、昭和天皇を好演した人だし。あれはロシア映画でしたね。 ヤマ(管理人) ソクーロフの『太陽』ですね。拙日誌も綴ってます。 (ケイケイさん) 私も観ました。映画の内容はあんまり覚えていませんが、尾形の演技は脳裏に残っています。これってすごい事ですよ。オスカーは、何で今回彼を無視したのか、作品もですけど、ちょっと腹が立ちます。ヒューも無視されたし! (ミノさん) そうそう。井上筑後守、すごくよかった! 彼をもう一人の主人公にして、対立軸にした物語を見たかったなあ。 守りの立場と攻めの立場で。 ヤマ(管理人) 彼が転び伴天連であることは、映画では直接語られてはいませんでしたが、半端な信者以上に耶蘇教への理解が深そうなことは、その達者な外国語からも、その話している内容の深さからも、察することのできる描き方でしたね。 (ケイケイさん) この辺は、わかり辛かったです。 私は信徒がペラペラ英語を喋るのを、いつものハリウッドの悪い癖と思っていたんですが、もしかして、井上が通訳を制して英語を喋り出したときの伏線だったかな?と、解釈しました。 ヤマ(管理人) 信徒の達者な英語の件についての僕の観方は、ミノさんへのレスにも記しましたが、ケイケイさんの解釈の意味するところをもう少しくわしく教えてください。どんな意図を読み取ったんです? (ケイケイさん) ヤマさんと大体同じです。ハリウッドはどんな作品でも英語で喋らすから、この作品では、もう違和感はなかったです(笑)。 ヤマ(管理人) 僕も長年観てきましたから、この作品ではもう違和感を覚えませんでしたが、あれはベルトルッチの『ラストエンペラー』だっけかなぁ、違和感ありまくりで閉口した覚えが…(笑)。 (ケイケイさん) 私はいつからかなぁ。もう様式美だと思って観ればいいかと(笑)。字幕・吹替え、お国の事情はそれぞれですから。まずは本国で当たって貰わないと困りますよね。 しかしそれにしても、意思の疎通ができるほど農民が外国語で会話できる設定は、ちょっとやり過ぎかと思っていました。それが、井上が通訳を制して喋り出した時、農民より遥かに堪能に会話していたでしょう? 農民よりもっと高度に英語を習得する場は、日本においては宣教師が先ず考えられるはず。鑑賞後、井上の転びの表現がなかったなと思っていましたが、後から考えて、間接的に「英会話が農民たちより遥かに堪能=深くキリスト教を学ぶ」的な表現かな?と想起しました。 ヤマ(管理人) この談義の一番最初に僕が書き込んでいる「彼が転び伴天連であることは、映画では直接語られてはいませんでしたが、半端な信者以上に耶蘇教への理解が深そうなことは、その達者な外国語からも、その話している内容の深さからも、察することのできる描き方でしたね。」というのと同じ趣旨なんですね。 「この辺は、わかり辛かったです」とのレスをいただいていたので、何かなと思っていたのですが、やはり外国語が達者な信徒農民たちより更に達者な筑後守という際立ちを見せるためというなら、よく分かります。 (ケイケイさん) その「わかり辛い」のところは、私のお返事の仕方が悪かったですね。私はイノウエが転びだと認識して見ているので、この演出でも上記の想起が出来ましたが、そうではない人には、イノウエ=転びとは、わかり辛いという意味で書きました。日本でもそうですから、アメリカでは日本は江戸時代からみんな英語が喋れたんだなと、きっと思っていますよ(笑)。 (ミノさん) しかし、彼が転向した元クリスチャンであるという情報はやはり欲しかったです。かなり、一方的な、布教側からの物語に見えてしまってるからです(私には)。聞けば、あれほど、キリスト教を弾圧したのは、信者になり、連れていかれた日本人がアジアに労働者として売り飛ばされたという説もあったりして、体制側も、過剰になったのかもしれません。 ヤマ(管理人) そういう説もあるんですか。知りませんでした。そんな事実がなかったとは思いませんが、その事実が理由で弾圧したというのではなさそうな気がします。売り飛ばされる前に殺してしまえってのも何かヘンだし(笑)。近ごろは自由歴史観などといった“自由”に名を借りた“好き勝手な”歴史観が横行してますから、説としてあるというのは、さもあらんですね。 (ケイケイさん) そんな事もあったんですね。布教はあくまで領土拡大の下地であると。戦争の言い訳に今でも使われますしね。そういう思いもあって、感想に私の宗教観も書きました。 (ミノさん) そうですねえ~。布教ってものは、そもそもビジネスライクな拡大なので、共感できないですわ。信仰はパーソナルなものでいいと思いますしね。まあ、当時のイエズス会とかの勢力分布からいうとそうも言うてられんのでしょうけど。 信仰と、宗教組織の活動は、全く別のものですもんね、本質的には。 (ケイケイさん) 私が仕えて一番好きだった先生は、5歳くらい年下の男性医師だったんですが、その先生が無宗教で神を信仰している、みたいな事仰っていました。基本的にはキリスト教かな? でも診察室には、マリア像の横に、インドの神々のポスターもあってね(笑)。 だいぶ変わった先生でしたが、すごく心が純粋で強い方でした。特別活動もせず、医学を通して、生き方の啓蒙みたいなのはしてらっしゃいました。いろいろな意見はあるけど、別に教祖になるわけじゃなく、お布施も求めないなら、これはこれで有りだと思います。先生の人柄が好きだからと、通っている患者さんもいましたから。 以前『母たちの村』という、セネガルの女性割礼を題材にした作品を観ましたが、女性割礼はコーランの教えという解釈で、広まっているのですが、コーランにはそんなことを書いていないそうです。割礼がなきゃ干上がってしまう人や、女性を虐げ黙らせたい卑怯な男性が、いいように伝えて、信じ込まされているだけ。 (ミノさん) ああ、そうなんでしょうねえ。解釈次第でどうとでも都合よく使えるだけに・・悪用もされますよねえ。弱い立場の子供女性が被害者になるのが、常ですよね。 -------農民の喋る英語への違和感------- (ミノさん) それと、この手の海外の映画の日本人はどうしてもみんな、ペラペラ英語をしゃべりすぎるんです。ご都合主義に見えて仕方ないです(笑)。一体、いつそんなに英語力つけたんだよ? 駅前留学でもしたのか~とか思っちゃいました。 ヤマ(管理人) これが引っ掛かった方は少なからずいた気がします。僕も、外国語ができるのは、イノウエ様と通辞くらいのほうが作品的にはよかったと思います。でもって、ポルトガル人なんだから、英語じゃないほうがね(笑)。 でも、この作品は興行に掛けるアメリカ映画なのだから、優先市場のアメリカの観客向けに製作されることに文句をつけても難癖にしかならない気がします。アメリカの観客ってすごく字幕を嫌うそうで(近頃は日本でもそのようですが)、減らせる字幕をできるだけ減らそうと工夫したのかもしれませんね。とはいえポルトガル語と言いながら、英語を聞かされることに違和感が湧くのも当然だし、僕もそうでした。 この件でもそうですが、ミノさんのブログは非常に明快で、とても面白かったです。 (ミノさん) あはは、私は、まあ、あまり極端な宗教とか信仰は苦手なんでしょうねえ。 フェネリア?でしたっけ。ニーアム・リーソンが演じてた宣教師。彼が、「日本は沼地だから、キリスト教は根付かない」と言ってました。沼地かどうかはともかく、私もそう思います。日本の風土に合うか合わないかというと、合わないという感じがします。根付く、というのが広く大勢に受け入れられるという意味で数値的に言うなら、やはり現在も根付いてはいませんから。 ヤマ(管理人) これについては、僕は何ともビミョーな感じを抱いてるなぁ。「広く大勢に受け入れられるという意味」なら、むしろ受け入れられていると思うのですが、真摯なる信仰となると非常に懐疑的にならざるを得ませんね。そしてそれは、ことキリスト教に限らず、神道であれ、仏教であれ、日本人に内省的な信仰が根付いているのかと問えば、否というしかない気がします。他方で、験担ぎや縁起、忌みといったマージナルなものに目を向けると、これまた誠に節操なく様々な宗教に関するものが、実に広く浸透している気がします。 -------主題は“宗教と信仰”よりも“良心の自由”?------- ヤマ(管理人) 僕は本作を宗教と信仰の映画として観るよりも、憲法第19条で保証されている所謂“良心の自由”について描いた作品として観ました。「当然、後者でしょ!!」がままならない、宗教による教条なり戒律もまた“良心の自由”を奪うものに他ならない気がします。ジハードなんて忌避すべきものですよね~。 (ミノさん) 私も本当にそう思いますね~。でも、この映画に描かれた図は、今の時代の人が見たら、自爆テロのムスリムを思い出すでしょう。死んだほうが楽なくらいの辛い生活をしている人がいることは理解できます。でも、「来世での神の国での幸福な生活」を糧に、辛い現世での生を生きしのぐことと、実際に、「神の栄光のために、死んでしまう」ことは、ベクトルは全く逆だと思うのです。 ヤマ(管理人) 同感ですね。 (ミノさん) 宗教的な「魂の死」と「肉体の死」を分けた考えというのが、私はどうしても実感としてピンとこないんですよね~。誰かのレビューで「オレなら5分で転ぶ」って書いてありましたが、フツーはそうですよね。キチジローは実にふつうで、別に何も悪くもない人間なのに、死ぬまで罪悪感に苛まれてましたね。そういう罪悪感や良心の呵責を起こさせるような人を縛る宗教なり、束縛なり、愛情なり、なんであっても、ほんと、忌避すべきだと思いますねー。 ヤマ(管理人) これについては、とてもデリケートなところがあって説明するのが難しいのだけれど、僕は罪悪感だとか良心の呵責といった内省的なものを呼び起こすもの全てが忌避すべきものだとは思ってなくて、“良心(内心)の自由”が保たれたなかで生じる内省はむしろ人間ならではのもののうち、非常に高次なものだと考えてますね。 だから、罪悪感や良心の呵責を起こさせるものが忌避されるべきものだというのではなく、それがどういった形で起こっているのかのほうが重要なんです。じゃあ、良心の自由が保たれているのか奪われているのかを何によって判じるかなんですが、これが実に難しい。ロドリゴの棄教は、良心の自由が奪われた結果でしたが、死の間際に彼の心に神が現れていたのは、宗教によって彼の良心の自由が奪われていたからだとは思えません。 あ、念のためですが、僕が“良心の自由”と言っているときの良心というのは、いわゆる良い悪いの良いを意味する良心ではなくて、良い悪いを含めて物事を測ろうとする心の動きのことです。拙日誌で敢えて「日本国憲法第十九条に保証されている“良心の自由”」と記したのはそれゆえで、英語による原文で「conscience」と表記されていたもののことです。「good conscience」でも「evil conscience」でもない「conscience」のことです。 (ケイケイさん) どんな宗教にも、光と影があるんじゃないですかね? 事実を掬い取るリテラシーは、宗教にも必要なわけで。これだけでも、カルト宗教は駆逐されると思うんですけど。 (ミノさん) ほんと、どの時代にも、生き抜くのに、リテラシーが一番大事。 (ケイケイさん) 本当にそうですね。情報操作や流言飛語の惑わされる事無く、しっかり見極めなくちゃね。これもネットの功罪ですね。 (ミノさん) でも、恋愛って、一番リテラシーだの、常識だのが吹っ飛ぶ出来事だと思うんですが、神への信仰とか愛ってのが、キリスト教の場合、かなり恋愛感情への置き換えに近い感じがするんですよ。ロザリオにキスとか、キリスト像へのキスとかも。恋愛中の異性に行う行動にとても似ていて、仏教文化のなかで育った自分としては違和感を感じるというか・・。友達で、キリスト教徒になり、神父さんの嫁になり教会に住んでる子がいるのですが、話していると、やはり、キリスト教徒って、一つの神との契約なんだな、と感じました。一社としか契約できないっていうような。 だから、「他の神の名は呼んではならない」「この神と契約すれば、救われる」っていうようなニュアンスを強く感じましたね。 (ケイケイさん) そのお友達、信徒としては理想なんですかね? 趣味を仕事にしたらしんどいけど、これは究極の神への誓いなのかな? 他の神の信じてはいけない、と言うのは、宗教的には多いかな? 私なんか、神さんは神さんなんで、みんな貴いと思ってしまうんですが。 (ミノさん) 「他の神の名は呼んではならない」「この神と契約すれば、救われる」っていうようなニュアンスって、「付き合うのは一人の男」みたいな概念ですよね。 (ケイケイさん) それならあらゆる変遷が必要ですよね。ひとつの宗教と契約を結ぶと、他は信じちゃだめなら、あらゆる宗教を「お試し」して、吟味して選ばなきゃいけなくなりますね。でも、そうも簡単にはできないし…。なんだかこれって、結婚と同じですね(笑)。 (ミノさん) 映画のなかで、繰り返し「betray」(裏切る)って言葉が出てきたでしょう? これって、日本人がとらえている神との関係のなかでは決して出てこない言葉ですよね。「裏切る」っていう言葉は、身内とか、友達とか、同僚だとか、そういう生きている者との関係性のなかでしか出てこないと思うんですよね。良いとか悪いじゃなくて、そういう風に育っているでしょう。 イノウエさんと、ロドリゴの会話のなかで、「一夫一婦制」談義があったように、これって、日本古来の文化との衝突で、スコセッシが言う「culture clash」(激しい単語使ってました)までの、根深い文化の違いから生まれてくる違和感なのかも。 (ケイケイさん) 確かにキリスト教の教義は、昔の日本には根付きにくかったでしょうね。でもそれは上位層というのが、的確では? 当時の日本は、士農工商と、身分の区分があったのに、それが神の子で平等と説かれるのは、すごく困った事だったと思います。私は政府がキリスト教を嫌ったのは、ここが一番かな?と思います。 (ミノさん) 私が例えば、欧米生まれであれば、これほど、宣教師側の行動に違和感を覚えなかったと思いますもん(もちろん、幕府のやってることに共感はしませんが)。 (ケイケイさん) こうやってお話していると、私が布教の様子にそれほど違和感を持たなかったのは、私自身、血は日本、骨は韓国と言う風に、二つの国の狭間に生きているからなのかと、思い到ります。 (ミノさん) こうしてみると、宗教を図式とした二つの文化の接触の時の物語なんですねえ。私自身が、これだけ文化摩擦起こしてるもん(笑)。 しかし、ほんまに、ヤマさんの言うように「人は、業が深い生き物」だと感じますわ・・ (ケイケイさん) ミノさんがブログに書いてはる「亡くなった後、日本人の嫁が、こっそりロザリオを亡骸に入れるが、ロドリゴは沈黙を守り続けたが、一緒に暮らした嫁は、彼の信仰心が死んではいないことをくみ取っていたのだろう。」ですが、これ、そうやったん? 私はロドリゴの亡骸を観た嫁が、一瞬凄いびっくりした顔して、そのまま蓋を閉じたので、何があったのかと訝しく思ったんですよ。それがラスト、あれでしょう? なので、あの時ロザリオを観たけど、誰にも言わずに、持たせてあの世に旅立たせたんだなと、思っていたんですが。 (ミノさん) あ、どうでしたっけ? なんか、嫁、刀を懐に入れるとか言って、入れてたでしょ? あの時、ロザリオ仕込んだのかな?と。 違うかも…あの嫁、無表情すぎてよくわかんなかった(笑)。 (ケイケイさん) 黒沢あすかは芝居巧者なので、あの手の芝居は上手かったです。能面でいてくれたから、ロドリゴも、自分なりの安息を見つけられたかも? その能面が、一瞬驚いたから、そうだったのかなと。 (ミノさん) ヤマさんに、聞いてみよう! ヤマ(管理人) ラストの十字架の件だけど、拙日誌にも綴っているように「映画という視覚芸術の表現として人物の心象を画面に映し出した場面」として意味を持つと僕は思っているので、リアルの物として観てなかったなぁ。 もしリアルの物だとするなら、それがロドリゴの手の内にあるのは、本人が握りしめ続けていたものを白装束に着替えさせるときに誰もほぐさなかったか、棺桶に入れる際に誰かが握らせたかのいずれかになるわけだけれども、今わの際までロドリゴが自分で実際に握り続けていたというのも実に妙だし、そうなると、現象的に起こり得る可能性としては妻が握らせたと解するしかなくなると思う。 でも、妻が握らせたとするのなら、物語としてロドリゴと妻の関係をもう少し描いたうえでないと、「なになに?そういう関係だったの? え?何それ!」って感じになって据わりが悪いと思う。僕の印象としても、ケイケイさんが書いているように、観客代表みたいな感じで驚いている表情だった気がするしね。 (ケイケイさん) 何をびっくりしてるんやろ?と思いましたよね。そして、また、すーと無表情になる。一瞬で思いを巡らせたんでしょうね。賢い妻ですよ。あそこで騒ぎ立てたら、自分も罪に問われるし、このまま見送れば夫も本望でしょうし。 ヤマ(管理人) それに、棄教を表明し、司祭だった時分には許されてなかった妻帯までして、それでも捨てきれなかった信仰の痕跡というものがロドリゴにあったわけだけど、だとすれば、それこそは本当に、誰にも言えない内心として秘めた“良心の自由”だったと解するのが相当で、「なんやぁ、嫁はんとしっかり懇ろになってこっそり信仰も分かちおうてたんやなぁ」と解さないと筋の通らなくなる妻が握らせた説には、乗りがたい気がするなぁ。 (ミノさん) スコセッシが、インタビューに答えているのを見ましたが、テーマは大きく、「異文化摩擦」とのこと。トランプ政権への移行を意識してか?異文化の排除、異文化を知らないことによる、暴力の増強、そのへんを語っていました。 (ケイケイさん) 制作当時の意図に、アメリカが追い付いてしまったという。哀しいねぇ。 | |||||
by ヤマ 【ケイケイさん掲示板】2017年 1月29日(日)00時22分~ 2月 5日(日)10時29分 | |||||
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