『この世界の片隅に』
監督 片渕須直

 戦況が悪化するなか、すず(声:のん)の呟く「いがんどる…」が心に深く刺さってきた。本作に描かれた戦前・戦中・戦後まもなくの日本を僕は同時代では知らない。わずかに薪で風呂を焚いたことや直火で飯を炊いた経験はあるけれども、日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活からは既に遠くなっている。

 軍港があるために空襲警報がひっきりなしに鳴る呉よりもずっといいと思われていた広島が人類史上類を観ない惨劇に晒された戦後まなしの人々が過去には戻れないと覚悟したように、今の「いがんどる」日本は、全てが焼け野原になった戦後に0から復興し平和国家を築いた過去にはもう戻れないことを覚悟しなければならないのかもしれないと思うと、なんだか悲しくて仕方がなくなった。思わず涙が滲んできたなかで、主題歌が悲しくてやりきれないだったのは、そういうことだったのかと思うと、よけいに泣けてきた。

 戦時下に、どんどん歪んでいったなかにあって、自他ともに認める“ぼんやり”であるゆえに、どこまでも“普通を失わない稀有な人格”を体現していたすずこそは、同時に並々ならぬ絵の才能に窺える“確かな観察力”の持ち主でもあったわけで、夫の北條周作(声:細谷佳正)が改めて讃えるに足る美しい存在だったように思う。

 だが、そのすずにしてさえ、敗戦時には「玉砕する覚悟じゃなかったのか」と降伏を憤り、先に死んで行った者たちへの想いからくる呵責に苛まれるくらいに「いがんどる…」のが普通だったわけだ。周作が、戦艦青葉に乗る妻の幼馴染の哲(声:小野大輔)の最後の出征となることがほぼ確実な休暇に暗黙の辞世を告げに来たことに対して苦衷の計らいを施したのも、多少の時間差はあれど自分たち夫婦も含め、間もなく死にゆく身との想いがあってのことのような気がした。それに対して、上手に哲を諭したことを周作と同じ言葉で哲から褒められ、翌朝、夫には初めて「夫婦ってそんなものですか!」と憤りの感情をぶつけ、決して投げやりにもならず、普通であり続けることのできた彼女にして、降伏は憤激の対象となる出来事だったのが、あのときの日本人であったということなのだろう。

 当時の暮らしの技術と作法の細部が非常に丁寧に綴られており、それがまた一際美しかった。日本の美の神髄は、威勢のいい妄言的な精神論ではなく、この実生活の細部にこそあったのだと改めて思う。そして、確かに戦争は途轍もない荒廃をもたらしたけれども、それと同時に、地方都市であってもモガとして若さを謳歌できた北條径子(声:尾身美詞)の一方で、スイカの赤い部分は一度しか食べたことがない貧困の末に苦界に身を沈め、華の香を撒いていた白木リン(声:岩井七世)がいる格差をも焼け野原にしたことを怠りなく描いていたところが目を惹いた。

 僕の親の世代の人たちが、その焼け野原から始めて“一億総中流”とさえ呼ばれた稀有なる平和国家を築き上げたはずのものが、バブル経済とその破綻によって変質し、どんどん「いがんどる…」世の中になってきたような気がする。経済的余裕がないなかで就学を続け職を得るために受給した奨学金の返済に窮して性サービス業に身を投じる女性が少なくないとメディアで報じられ、満足に食を得られない児童のために“こども食堂”なるものが生まれるような格差社会における“かつての径子とリン”が増えてきているような気がしてならない。そして、禁断の軍事経済に手を出すところに今の日本は立ち至っている気がしてならない。この先に待っているのは、また焼け野原ということなのだろうか。

 何が失われ、何が本当に取り戻されなければならない日本なのかを、今の時期、的確に描き出しているからこそ、かように地味な映画が口コミでヒットし、普段にはないような形で地方都市での公開に繋がってきているのだろう。そのことを思うだに、あるべき“普通の感覚”はまだまだ失われてはいないとの思いと併せ、危機感と不安が高まってきていることの証でもあるような思いを抱いた。見事な作品だ。

 折しも“DIAMOND online”から所得1億円超だと税負担率はこんなに低い、金持ち優遇の実態」との記事が配信されてきた。2003年に刊行された年収300万円時代を生き抜く経済学』(森永卓郎 著)を読んだときドラスティックな利権の再構成による階級社会の取戻しに向けた初期段階の小泉政権による二大施策を著者は「税制改正の中身」と「不良債権処理の加速化」(P36)としていると記し、三年後の2006年に刊行された新・富裕層マネー 1500兆円市場争奪戦』(日本経済新聞社 編)を読んだとき租税回避問題は、大企業のみならず富裕層の個人を取り込む包囲網が金融資本主義によって張り巡らされることで起きてきたものであることを改めて痛感した。と記したが、優遇税制すら回避して、今だけ金だけ自分だけを邁進しようとする富裕層の日本人は、誰ひとり本作を観ることはないのだろうと思うと、ますます「悲しくて悲しくてとてもやりきれない」気持ちになった。





参照テクスト:原作漫画の読後感想


推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
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推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/17010802/
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/7bd7de00d508a1df06c561c02971dec9
推薦テクスト:「こぐれ日乗」より
https://kogure.exblog.jp/23446084/
by ヤマ

'16.11.27. TOHOシネマズ3



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