『紙の月』
監督 吉田大八


 なんとも哀しい映画だった。ちょうど同日に観た芝居のレンタルファミリーと同じく、バブル景気の崩壊した1994年から始まる話なのだが、バブルが弾けようが弾けまいが、あるところには余るほどに金があって、その使い道が分からなかったり、ベンツがモデルチェンジをするたびに買い替えて操作盤の扱いが変わって困るとぼやいていたり、或は誰もかもが己が資産を狙っているとの被害妄想から、ひたすら蓄財自体に執心するようになっていたりしていた。

 そんななか、認知症が進みつつある独居の老婦人(中原ひとみ)の健忘に誘われるようにして手を付けた300万円で組んだクレジットカードで、若い愛人の光太(池松壮亮)と週末を高級ホテルのスイートルームで過ごし、買い物にも明け暮れて150万円を一挙に使ってしまう梅澤梨花(宮沢りえ)の消費衝動に、バブル崩壊前にメディアが喧伝したバブル風俗があからさまに影響しているさまが何とも情けなかった。

 僕は、日本社会のモラルの底が抜けたのは、アメリカに対抗するための強引な円安誘導に向けて取った政府の金融政策がもたらしたバブル景気の時代に、それを煽ったメディアが生み出したバブル風俗によるものだと思っているのだが、さしたる確信も悪意もないままにズルズルと底が抜けていった梨花は、まさしくバブルが壊したもののツケの象徴のような存在に映った。

 彼女が隅より子(小林聡美)の言う“途轍もないこと”に手を染めていく個人的動機として描かれていたものが些か希薄な点が気になったが、作り手としては、個人的リアリティよりも時代的気分を背負っている人物として梨花を造形していたのだろう。姉では少々憚られる、子供と言ってもいいほどの年齢の若い学生から熱い眼差しを送られることで些か過剰に熱くなってしまうのも、過剰に女であり続けることを強迫して消費動向を煽ることに対して底が抜けたバブル期の痕跡が色濃く窺え、最後のチャンスとの切迫から動転しているように映った梨花の“アラフォー女性の哀れと滑稽”が実に痛ましかったのだが、それを時代のせいだけにするのは筋違いだから、より子の存在が設けられていたのだろう。

 最初に不正を行った200万は、溺れ込んだ光太のためにしたことで、言わば、祖父から孫への遺産の先渡しのようなものだから、手を染めやすかった形になっているところに、妙に現実感があり、これを受け取ったら関係性が変質すると告げて躊躇していた光太なればこその“二人の関係のタチの悪さ”に納得感があったように思う。だが、10万だけ渡して190万を抜いて200万の受け取りに押印させるようになれば、ずるずると底が抜けてしまっているわけで、同じ老婦人の300万に手を付けた時からも既に遠い地点まで来ていることになる。そんな梨花と同じく光太も彼女との関係のなかで、どんどん駄目になっていたのが遣り切れなかった。「ニセモノでもいいのよ、こんなに綺麗なんだから」との老婦人の言葉がなかなか痛烈で、開き直ったような達観したような皮肉な響きと共に印象深く耳に残っている。

 ラストには、けっこう強い違和感があったのだが、原作ではどのようなエンディングになっているのか、そのうち読んでみたいと思う。




参照テクスト角田光代 著 『紙の月』(角川春樹事務所 単行本)を読んで



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/2014113001/
推薦テクスト:「映画感想*観ているうちが花なのよやめたらそれまでよ」より
https://kutsushitaeiga.wordpress.com/2014/11/16/kaminotsuki/
by ヤマ

'14.11.23. TOHOシネマズ3



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