『拝金』を読んで
堀江貴文 著<徳間書店 単行本>


 先ごろベイビーローズを読んで“バブル風俗”の残滓として次世代に与えているものを確認するような気分になったものだから、これも今が読み時かと五年前に刊行された本書を手にしてみたら、思いのほか面白くて驚いた。小説家に求められるのは、修辞センスや言語感覚そして想像力だとされがちだけれども、圧倒的に飛び抜けた実体験を得ていれば、それらを軽く凌駕してしまえる物語世界を構築できるのだと改めて思った。回想録やノンフィクションとして書いていないところが実に巧妙で、本作のモデルにした堀江貴文を、松ならぬ藤の“優作”と堀井健史(たぶんホリイタケフミ)の二人の人物に分割しているところが秀逸だと思った。

 あとがきに記されたお金を手にして突き抜けないと分からない世界があることを、どうしても伝えたかった(P268)という部分は確かに少しは感じたけれども充分に伝わって来たとは言い難いものがあったように思う。しかし、フィクションだからできる「ノンフィクション」。どれが本当のことか、宝探しの気分で探してもらえれば(P268)という部分の面白さは、十二分に堪能できたように思う。

 また、かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだったフジテレビが、元東京12チャンネルのテレビ東京にも視聴率で後れを取り、NHK・在京キー局中単独最下位に凋落する日が来ることは想像も出来なかっただけに、MSCBのために、ヤマトお得意のドラマや映画、イベント事業などのコストも削減されていく。そうなれば、コンテンツの劣化は火を見るより明らかだ。番組の質が低下すれば視聴率が下がり、広告収入も減る。ヤマトテレビ(フジテレビ)はジワジワと沈んでいくことになる。 現時点では、ヤマトテレビの業績は悪くないし、質の低下も目にはつかない。 だが、オッサン(堀井健史)の仕掛けた時限爆弾は、ゆっくりと針を進めていく。 今後、いやおうなしにネット時代は進み、テレビ離れは加速していくだろう。テレビ業界自体が低迷すれば、民放キー局の中でヤマトテレビが真っ先に脱落することになる(P252 第7章 決着)と五年前に記されていることに、とりわけ感心した。

 プロローグで藤田優作、君はどのくらいの金持ちになりたい?(P7)といきなり切り出した場面をそのまま本編で詳しく再登場させる(P56~P57 第2章 契約)という、まるでテレビドラマの編集のような構成に驚いたが、これも作者があとがきで、裏側でたくさん仕掛けておいたという「従来の小説にはなかった新しい手法」の一つだったのだろうか。そして、この“悪魔との契約”のことは、エピローグで三たび登場(P262)する。

 先ず「第1章 邂逅」にて負け組の「負け」が、戦って負けたと定義すれば、そこにいた連中は、戦うこと自体諦めていた。戦ってもいないのに、勝ちも負けもない(P11)と記した著者がエピローグの最後にそうさ、「拝金」だ。 欲にまみれて欲を突き抜けた男たちだけが名乗る、誇り高き異称だ(P263)と記して終えた物語を読んで改めて思ったのは、強欲資本主義の申し子のような拝金主義者たちのなかには、山本太郎参院議員の言う“今だけ、カネだけ、自分だけ”ではない者もいるのだなということだった。“今だけ”ではないこれから、“カネだけ”ではない欲望…。そして、奇しくも最近になってまたぞろ株価操作疑惑とやらで新聞ネタになっていた村上世彰について、あとがきの冒頭で触れている部分が目を惹いた。曰く「やりたいことがないんだよ……」六本木ヒルズの会員制バーで、村上ファンドの村上世彰氏が、そうつぶやいたことがあった。…誰もがうらやむ悠々自適な生活を保証された途端、何かが抜け落ちる人がいた。村上さんに限らず結構、多かったのだ。(P266)と。だが、著者は、「逆にやりたいことがあり過ぎて困っていた」そうだ。だから、“今だけ、カネだけ”ではないように僕も感じたのだろう。しかしそれだけに、徹底的に“自分だけ”なんだなという思いは却って刻み込まれたような気がする。

 あとがきに「どれが本当のことか、宝探しの気分で探してもらえれば」と記してあった部分に該当しそうに思うことのなかで最も印象深かったのは、決して蔑んでいるのではない形での女性への食傷感に対するリアリティだった。…こんな日に、連れ(酔った杉作くん)と一緒にダベッている。CAを抱いているより、楽しかった(P142 第4章 躍進)というのは、紛れもなく実感だったのだろう。また稼いだら、遊べばいい。忙しいときは、無理して遊ぶくらいのほうがいいんだ。仕事が順調で忙しいときは、遊びよりも仕事のほうが断然、楽しいだろう? だから本業に影響するほどハメは外さないものだ。そうやって遊んでおけば、誘惑や快楽に耐性ができるから、いざというとき下手を打たなくなる(P130 第4章 躍進)というのも、実際にそうできるかどうかは別にして、本当のことのような気がした。

 そして何か騒動が起きると、マスコミはその当事者を公開リンチにする。群がり、吊るしあげる。挙げ句、プライベートまで暴き立てるくせに、一方で彼らは常に匿名性で守られていた。マスコミという集合体の中で、その個人は決して特定されない。だから、相手の人格をいくら踏みにじったところで平気なのだろう。 俺はそれを許さない(P187 第6章 激闘)というマスコミへの憤りも本当のことなのだろう。「日本の電波をオークションにかけたら、いくらになると思います?…3兆円。3兆円ですよ。ちゃんと電波オークションしていれば、それだけの金が、定期的に国庫へ入ってくるんだ。つまり、民放テレビは、タダ同然の金で、好き放題、公共の電波を私物化してきた。よその国じゃ、テレビの電波は一般公募のオークションにかけて高い金を出した事業体がそれを取得する。だいたい、1局当たり100億円は普通に払っている。それが日本では全局で70億円ですよ」 誰もが納得する金を払って電波を使用する。それで商売をするなら何も問題はない。だが、日本の民放各局は、その電波使用料を政府と癒着して安く使わせてもらっている。その権力をどうやって監視するというのか(P209 第6章 激闘)という論点には、注目すべきものがあるように感じた。電波料さえ支払えば、それで商売をすることに何も問題ないとは思わないけれども。

 他方、俺は(金融部門を担う)田宮(ファイナンス担当)や熊本(証券担当)を恨む気はなかった。というより、彼らへの興味が失せていた。俺にとって一番、重要なのは「何が起こったか」だ。 その意味では、検察に起訴されようが、幹部の裏切りにあおうが、会社が潰れようが、資産をすべて失おうが、もはやどうでもよかった(P245 第7章 決着)という部分には、逮捕容疑をすべて否定する立場からのレトリックが仕込まれている気がしてならなかった。小説の読者を自身の味方に引き込もうとする思惑そのものが本書の著作動機のような気がした。俺たちの様子に、女子アナ合コンをしていた連中が顔を見合わせていた。ヘンな薬でもキメて、ハイになったと思っているに違いない。 ああ、そうだ。でもドラッグじゃない。 情報という、究極のクスリ。 ボロ儲けという、至高のクスリ。 これ以上の快楽は存在しなかった。 おまえら、知らねえだろ?(P198 第6章 激闘)の慢心のほうが本音だと思った。

 それにしても、「ビジネス初心者4カ条」として1つ、元手はかけない。 2つ、在庫ゼロ。 3つ、定期収入。4つ、利益率。(P71 第3章 起業)を挙げ、価値創造に全く触れないビジネス観が今更ながらに寒々しかった。金の価値は交換したい個人の「欲望」でいくらでも変動する。ある物に対して、どんなことをしてでも欲しいと思えば、金の単位的な価値は低くなり、逆に大して欲しくないならその価値は高くなる。愛はタダで買える、でも、いくら払っても買えないのだ。いわゆる、高いとか安いとかは、世の中にはびこる適正価格を意識したもので、それはあくまで、このくらいの値段で交換したいという、欲望の平均的な数値にすぎない(P62 第3章 起業)という“欲望社会の申し子”のような価値観なのだから、当然と言えば当然なのだろう。価値というものを欲望との相関でしか測れない人生というのは、何か貧弱な気がして仕方がなかった。

by ヤマ

'15.11.30. 徳間書店 単行本



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>