『小さき声のカノン~選択する人々』
監督 鎌仲ひとみ


 ネット検索で拙サイトを観たとの配給の宣伝担当者から観賞の誘いのメールを受けて上映会に赴いたら、知らされていた苦戦とは裏腹に、最近の上映会のなかでは思いのほか多くの集客を果たしているように感じた。

 印象深かったのは二十年前にスクリーニングシステムを作ってくれたのは日本人なのに、なぜ日本人から問われるのでしょうかと語っていたベラルーシの人の言葉だった。発災当時に事故の質と規模の点でチェルノブイリとは違うと盛んに宣伝されていたのとは全く異なる対応面からという意味で、チェルノブイリ事故のときとは全く違っていたようだ。

 施すべき手立てを敢えてこまねいて事態の矮小化を図っていたとしか思えない結果は、なにゆえ、どこからもたらされたものなのかについての言及は、本作にはなかったが、単に“想定外の出来事”による混乱と狼狽ではない何かが作用していたような気がする。チェルノブイリ級の大事故だったことは後に露見したが、当時はそれを否定していたから、チェルノブイリ級の対応を採るわけにはいかなかった人々がたくさんいたのだろう。重要な位置にいる人々が妙な忖度を働かせて“住民ではない何か”を守るために積極的あるいは消極的に何かを“選択”したような気がしてならなかった。一部において日本国政府の棄民政策として名高い“戦後の南米移住奨励策”のことをふと思い起こしたが、その当時は国民すべてを賄うには国民総生産が及ばなかった事情が働いていた面もあることを思えば、一部の者の利益権益を守るためだけのように感じられる福島原発事故問題への対応における棄民ぶりは、性質の悪さが桁違いという気もする。

 そして、これまでに観た福島原発事故にまつわる映画おだやかな日常friends after 3.11』『相馬看花』『フクシマからの風』『普通の生活フタバから遠く離れて遺言 原発さえなければ祭の馬でも捉えられていた“分断”の問題において、新たな地平が提示されているように感じられた点が新鮮だった。どうしたところで、覆水は盆に返りようがないのだと思った。残留であれ、移住であれ、帰還であれ、3.11以後の新たな地平で生きるうえでのコミュニティの再構築がなされており、最小単位のコミュニティとも言うべき家族さえも再構築を余儀なくされることから逃れられないということなのだ。

 そして、それはネガティヴな側面が圧倒的ながらも、決して負の側面ばかりではなく、3.11以前には持ち得なかった共感性を獲得したり、社会活動への参画を果たしていた。もう元に戻すことは不可能だと腹を据えたなかで、地道に除染に携わることを捨てず、口に入れるものへの放射能の測定を怠らないライフスタイルを貫く同志の連帯は、被災者全てが共有できるものではないのかもしれないけれども、生き方としての力強さと手応えを観る者に確かに伝えてきていたように思う。

 映画上映の後、鎌仲監督のトークがあったが、この4年間で福島の人たちが本音を言えなくなってきていることを痛切に感じるという話が印象深かった。「選択する人々」という副題には、それなりの思いを込めたようで、『六ヶ所村ラプソディー』で取り上げた原子力施設受入れ問題であれ、それ以上に過酷な福島の被曝への向かい方であれ、既存の共同体が分断されるなかでの人々の選択は、その切実さゆえ、いずれであれ是非なきものとして捉えているようだった。映画には出来なかった事々を積極的に語っていて、成程そういう思いが字幕表示に繋がっていたのかと得心したりした。
by ヤマ

'15. 4.12. 美術館ホール



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