『フタバから遠く離れて』
監督 舩橋 淳


 原発事故によって町全体が警戒区域となり、約250キロ離れた埼玉県の廃校(旧騎西高校)のなかに役場をも移転させた避難生活を送ることになった福島県双葉町の被災住民1423人を9か月間に渡って捉えたドキュメンタリーだ。僕の通った中高一貫教育の学校は1学年300~360人だったから、それを考えると、一つの学校に住まわせることも不可能ではないのだなと納得しつつ、面積わずか52k㎡でも、映画のなかでなぞらえられていた“ノアの方舟”みたく洪水が引くようには除染されはしないであろう双葉町に、彼らが帰還できる日が来ることはもうないのだろうと思った。

 これだけの惨事を生み出してもなお、原発のほうがコストが安いと考える者がいて、再稼働に向けた動きが止まらないのは何故なのだろう。メディアが「公平に」再稼働への賛否両者の言い分や議論なんぞに係る言葉や解説を映し出して難題ぶるのを止め、被災の結果として、どんなことが起こり、現状がどうなっているのかを淡々と映し出せば、原発稼働の再開が実に馬鹿げていることに誰しも思い当るという気がするのだが、そうしないのは明らかに、“装われた「公平さ」”によって、意図的な問題隠しを企図しているからだろう。ついついそんなふうに思ってしまうほど、突如“流浪の民”にさせられた人々の遣り切れない姿が捉えられていたように思う。

 同じ双葉郡で隣接する浪江町の希望の牧場・ふくしま(吉沢牧場)」にも触れていて、繋がれたまま棄てられ飢餓死した牛の死骸と警戒区域内でも飼育され続けている牛とが映し出され、観る側に牛の姿としてだけでなく、人の姿を偲ばせる作りになっていたところが痛烈だった。

 本作のなかでも原発誘致による町政運営への反省と悔悟を語っていた井戸川町長は、その後、中間貯蔵施設問題への対応を巡る県知事との対立のなかで、町議会の不信任決議により辞職している。

 チェルノブイリにもいたらしいように、警戒区域に指定され避難勧告が出ても、家畜ともども住み続けることで異議申し立てをする人がいて、同時に、御都合主義としか思えないような形で基準見直しをし、防御服を着せてまで住まわせようとすることや追われた民を放置したまま、無人化した土地に懸案の処理施設をちゃっかり作ろうとする原子力行政に抗議を示して追われた首長がいる。警戒区域に住み続けることと避難することとは相反するように見えながらも、両者の核心部分は共通している。誰が被害者で、対策や措置は誰のために行われなければならないのかを誤っている状況に対する異議申し立てであるという点だと思う。

 会場ロビーでは、原爆による被害者を撮り続けた写真家福島菊次郎の写真パネル展を併設して、激烈な熱線を伴う爆弾被害という形の違いはあれど、上映する映画では目に出来ない被曝の惨状をも伝えていたが、「シネマフィロソフィア3.11」という学生たちの主催するこのような上映会に、県民文化ホールや県立大学が共催として名を連ねている点が、なかなか立派だと思った。





推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/14011901/
by ヤマ

'14. 1.17. 県民文化ホール・グリーン



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