『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
 (Birdman Or (The Unexpected Virtue Of Ignorance)
監督 アレハンドロ・G・イニャリトゥ


 僕ら'90年代をリアルタイムで過ごしている者にとっては、“オウムの空中浮遊”を思わずにはいられないオープニングに意表を突かれた。そういう映画なのか?と驚いたのだが、本作に対する僕の無知は何ら予期せぬ奇跡をもたらしてはくれず、むしろ、映画作品が演劇について語ると、どうしてこうも強迫性が前面にでてくるのだろうと、妙なところを刺激されたような気がする。

 僕自身は、いずれの現場に身を置いたこともないので、その実態は知らないが、出来上がった作品から受ける印象として、ドラマを構築するうえでの現場の濃さには、やはり“テレビより映画、映画より演劇”というイメージがあるのだが、もしかすると映画人たちには、かつてテレビ人たちが映画に対して抱いたような負い目があるのかもしれないなどと思った。

 本作において引用されていたレイモンド・カーヴァーによる演劇『愛について語るときに我々の語ることWhat We Talk About When We Talk About Loveになぞらえると、whatであれ whenであれ、演劇について語るのは、愛について語るのと同じくらい、言葉の空疎が露わになるような“身体性”と言うか“肉体性”が鍵を握っているように思う。作り手は、そのことをよく知ればこそ、ある種、過剰反応をしているような気もした。

 そういう強迫性といった意味では、ダーレン・アロノフスキーのブラック・スワン['11]とは、その凝った脚本ともども相通じているように思った。そして、舞台劇では絶対に再現できない映像ならではの表現を強烈に押し出してくるあたりに、なんだか映画人の因業のようなものを感じたりもした。

 その一方で、映画人も演劇人も、批評家に対する視線は同じなのだなと妙に可笑しかった。また、業界事情に通じていると、さぞかし笑えるのであろう小ネタが満載されている感がありながら、膝を打っては反応できない僕の無知が興を削いだようなところもある気がする。

 そもそも「無知がもたらす予期せぬ奇跡」など、バードマン以上に幻想に違いない。多くの場合、やはり無知は無知なのだ。

by ヤマ

'15. 4.14. TOHOシネマズ4



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