『生きものの記録』['55]
『遺言~原発さえなければ~』
監督 黒澤明
監督 豊田直巳 野田雅也


 永らく未見のまま来ていた『博士の異常な愛情』['64]をようやく観たとき、黒澤ファンの先輩から、「キューブリックのそれなんかより我らが黒澤が十年先んじて撮った『生きものの記録』のほうが数段いい」と託されていたものを、ちょうど同時期の『ゴジラ』['54]の60周年記念デジタルリマスター版も観たことだし、ハリウッド版の『GODZILLA』も始まったしということで、ようやく初めて観るに至った。

 そして、思っていた以上の素晴らしさに大いに感心させられた。それは、原水爆による放射能禍への恐怖や不安そのものよりも、人間なるものの鈍感さやら、目に映る目先のことしか考えられない御粗末さのほうが痛撃されていたからだろう。折しも、福島原発事故に右往左往した震災から三年経っても放射能漏洩制御がままならないなかで、早々と原発稼働再開や原発技術の売込みを平気で唱える連中がいるばかりか、それが実際の動きになってきているものだから、なおさらに本作の不朽性に心打たれるようなところがあった。

 アメリカが水爆実験を繰り返す太平洋に面した日本から南米ブラジルに一族を引き連れて逃げ出そうとしている年老いた中島喜一(三船敏郎)が「なんでこんなものをつくったんだ!」と水爆実験を報じた新聞を丸めて叩きつける姿にも通じる叫びを日本人が繰り返したのは、ほんの数年前のことなのだ。中島老のスケールでの行動には及ばずとも、福島から、或は東京から、西日本に子供を連れて逃げて来た人の数は決して少なくはない。そして、六十年前の南太平洋での漁船の被曝を今に伝えるドキュメンタリー映画放射線を浴びた[X年後]でも捉えられていたように、放射能禍は現に今も計測器に反応する形で物理的に残っている。それでもなお、原発再稼働やプラント輸出を目論むことのできる人々の想像力と思考力の乏しさには絶句するしかない。

 だが、想像力の及ばなさという点では、中島喜一もまた、家族の心情に対しては、家族から彼の想いが理解されないのと同程度に、全く及んでいないところがなかなか痛烈だった。「俺に任せておけ」と言うばかりで、きちんと説明しようとしないところは、オリンピック招致に向けて根拠もないままに「放射能は完全にコントロールできています」などと自信満々に放言していた安倍現首相とも大差ない。また、齢七十の喜一が子を生ませたばかりの若い朝子(根岸明美)の父親(上田吉二郎)や喜一の次男(千秋実)が見せる心無さやこすからさにしても、人間のそういうところに端を発している気がしてならない。

 奇抜な設定、破格の人物像を描き出しながら、本作に普遍性があるのは、そういったところでの確かな人間観察に裏打ちされているからなのだろう。流石だ。それにしても、黒澤作品での三船敏郎は本当に凄い。桁外れのパワーを持った“老人”にきちんと見える名演だった。大したものだ。


 そのような六十年前の劇映画『生きものの記録』と同じく核の問題を取り上げた映画として、今春公開されたばかりのドキュメンタリー作品である『遺言~原発さえなければ~』は、共に「目に見えない放射能禍への恐怖や不安そのものよりも、人間なるものの鈍感さやら、目に映る目先のことしか考えられない御粗末さのほうが痛撃されていた」点で通じているような気がした。

 農作物以上に、生き物たる牛を飼っている酪農家の見舞われた苦衷に対してまるで想像が及んでいなかったことを思い知らされるような気がした。牡が生まれると、採算が取れないとわかっていても産業動物としての命を全うできるまで育てずにはいられないのが酪農家の心だというのは、本作で語られなくても、三か月ほど前に観たばかりの『銀の匙 Silver Spoon』でも描かれていたことだが、同じ殺されるにしても意味が違うとの思いは、『生きものの記録』での喜一の老いてなお「死ぬのは仕方がない。だが、殺されるのはイヤだ。」との叫びを想起させつつ、人の命ならぬ牧畜の命に対し、売れる見込みなく処分も出来ずに多額の経費を要するなかで痩せ衰えさせざるを得ないままに飼い続けていた胸中に、自分の想像などはまるで及ばないことを痛感した。

 しかも本作では、タイトルに示されたとおりの言葉を残して、実際に自殺が起こるのだから、その憤慨と遣り切れなさは、六十年前の劇映画の比ではない。黒澤の劇映画も相当のインパクトだったが、本作で映し出された、合板にチョークで書き残された遺言には慄然とした。そのうえで僕が最も動揺させられたのは、映画タイトルを観ても事前には全くピンときていなかったことだ。

 本作に登場する実姉の口からの「フィリピンからの帰国後」という言葉と、飯舘村前田区の区長が語っていた「55歳」という年齢を聞いて、ようやくと思い当ったに過ぎず、それまで全く忘れていた。関心を寄せていながらも所詮はこの程度かと思い知らされたような気がした。

 そのことも手伝ってか、先に『生きものの記録』を観ても思ったことだが、それ以上に「福島原発事故に右往左往した震災から三年経っても放射能漏洩制御がままならないなかで、早々と原発稼働再開や原発技術の売込みを平気で唱える連中がいるばかりか、それが実際の動きになってきている」状況に対して憤りを覚えた。

 インターミッションを含んで四時間足らずでもぐったり疲れたのだが、四年足らずの時を既に彼らは「第1章 汚染」「第2章 決断」「第3章 避難」「第4章 故郷」「第5章 遺言」として生きてきているわけだ。そして、廃業した酪農家たちのなかから復興牧場ミネロファームの起業が始まり、避難先の土地で農地を借り上げ、七年物の作物を植え始める老農夫の姿が映し出される。本当に、国は、東電は、この間いったい何をやってきたのだろう? 政争の具にしたり、被災者の真情を黙殺してきている部分は、人災以外の何ものでもない気がした。

by ヤマ

'14. 7.26. DVD観賞&あたご劇場



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