『蜩ノ記』
監督 小泉堯史


 権謀術数に長けた敵役をあてがわれそうな家老の中根兵右衛門(串田和美)を悪辣に描くよりもむしろ、失脚した家の再興に掛けて家老職にまで上り詰め、政商と結託してでも藩財政の立直しに取り組んだ人物として、やすやすと信を置くことの適わぬ奸物ながらも、筋立てまでもは失っていない姿を偲ばせて描いていたことに、昨今の政治家の低劣化に対する嘆きが込められているような気がした。甥の水上信吾(青木崇高)が、兵右衛門の履き古した足袋の綻びに目を留めて「倹約もいい加減になさりませ」と反語的にたしなめていたのは、そういうことだったに違いない。

 文武共に席を並べて修業した中根のことはよく知っているとも語っていた戸田秋谷(役所広司)のような貞潔な人物がそうそういるものではないことは自明だから、そのような人物像を現実世界に求めることはできずとも、せめて中根のように「やめい!これ以上、儂に恥をかかせるな」と一喝するくらいの節操や諫言に耳を貸す度量は、政治家には持っていてもらいたいものだと改めて思った。

 政治家の低劣化に限らず世の中に、反知性主義の蔓延とでも言うしかないような信じがたい言質が闊歩するようになってきているせいか、檀野庄三郎(岡田准一)が戸田秋谷のもとに来て最初に見た秋谷の筆遣いが「就中 学問ハ人倫ノ道」だったことに何だかやけに響いてくるものがあった。難しいということを貶める風潮を作り出したメディアの商業的迎合主義は本当に罪深いと思う。判りやすさに流されることの恐さは、既に取り返しのつかないところにまで来始めているような気がしてならない。

 また、秋谷の妻(原田美枝子)が、蜩の妻だから一日一日を大事にして生きていく、というようなことを庄三郎に語っていた言葉に、僕が座右銘にしている「自分の納得する一日を持て」を想起して感じ入ることのできるものが宿っている作品になっていて、とても印象深かった。場面描出としては、庄三郎の過ごした三年近くの日々の一日一日を丁寧に描くことや庄三郎が来る前七年の夫婦や家族の姿を描くことをしていたわけではなく、言うなれば、この台詞で片付けていたわけだが、台詞そのものは夫の死後の覚悟を語ったものだからという免責の与えられる形で登場していたように思う。そして、この台詞と秋谷の佇まいが戸田家の十年を自ずと偲ばせていた気がする。

 それでも120分を超えていたのだから、たぶん一日一日の部分を丁寧に描くには尺が足りない事情も働いていたのだろう。そのうえで、一命の日誌に綴ったような過剰さを排し、四季の変化のショットと庄三郎の変化によって時間の経過を示すうえでの工夫をしていたような気がする。

 昨今は、描き足りないくらいが程の良さと承知している作り手がほとんどいなくなっているようなので、むしろ天晴れかと思ったりもした。特に観ていて驚いたのは、一揆騒動の顛末をここで切り上げるのかというような突然の雪景色への思い切った転換だったが、観終えてみると、そのことはちっとも気にならない仕上がりだったことに感心した。

 それにしても、岡田准一はいい。運動神経がいいのだろう。身のこなし、所作にキレがあって美しい。僕の目を惹いたのは、十年前に観た東京タワーで、実年齢よりも若い二十歳前後の青年を演じて、透明感を感じさせていたことに感心したのだが、あれから十年経っても尚その持ち味を失っていないことに驚く。秋谷に十年後の切腹を命じた大殿を演じていたのが三船史郎だったことにも目が留まった。雨あがる以来になるように思ったが、思いのほか貫禄があったような気がする。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-c6de.html
by ヤマ

'14.10.21. TOHOシネマズ8



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