『雨あがる』
監督小泉尭史/脚本黒澤明


 日本映画の伝統のよき部分が蘇ってきたような作品だった。時代劇であるにもかかわらず、古臭さを微塵も感じさせない瑞々しさと普遍性を宿した同時代的な眼差しを湛えている。伝統のよき部分が、ことさらの強調や懐古的ないとおしみではなく、このような形で作品となり得た最大の功労は、情緒過多に流れない抑制された演出にもかかわらず緩やかに染み渡ってくる情緒の加減にあると思われるが、その絶妙のバランスは奇跡的だと感じられるほどで、この成功に気をよくして二匹目の泥鰌を狙っても恐らくは得られまい。

 かくありたいと願う自分を実現し、そのままに生きることが叶う人間などほとんどいないが、それを果たし且つ損なわずに生きられる人の幸いと苦労というものに思いを馳せつつ、しみじみとした爽やかさを感じた。通常は、かくありたいと願う自分を実現すること自体に自らの力量が及ばなかったり、仮に実現できたにしても、それをそのまま表出することが周囲との軋轢を起こすなかでは、現実と折り合いをつけて生きていくために、譲り、損ない、失っていき、保てないとしたものだ。人々は、自分と同じ土俵のなかでは、実力と人格を併せ持つ存在を許容しようとはしない。同じ土俵におかなければ、容易に許容するどころか、持ち上げ奉ったりするくせに、そうはできない何かが働くと途端に目の敵にする。周囲に許容してもらう現実的な生きやすさのために自分を偽ることに抗う誇りは、青臭い未熟さだとされてしまう。強く且つ優しくありたいという自分の願いを実現した伊兵衛(寺尾聰)とて、その部分をも達観しているわけではなく、現実生活にうまく対処できない自分に対する葛藤や情けなさに見舞われたりする。さりとて、それがために損ないたくはないものがあるゆえに、不遇を引き受けることを仕方ないとしているのだ。

 しかし、彼がそういう生き方を貫いてこられたのは、自身のうちにある自負や誇りによるものだけではない。それが痩せ我慢といった卑小なものに凝り固まらずに済むには、そう多くの人々である必要はないが、彼の生き方そのものを認めてくれる心の伴侶を必要とする。伊兵衛が妻たよ(宮崎美子)にひとかたならぬ心遣いを見せるのは、むろん恐妻家だからではないし、単に苦労をかけている肩身の狭さゆえでもない。自分が挫けず損なわないでいられる支えの一つとして、その存在の大きさを熟知しているからに他ならない。狭量な人々との軋轢によって現実生活の失敗を重ねるなかで、自分は自分ゆえに起こることとして仕方なく引き受けても、伴侶としてそれを許容できる彼女の心の大きさには敬服しないではいられないのだと思う。彼ほどに自分を理解し支持してくれる心の伴侶を得ている者は、そうそういるものではない。そういう伴侶は必ずしも妻君である必要はないのだが、人生においてそういう真の理解者を得ているかどうかは実に決定的なくらいに大きな意味を持つように思う。

 昨今は、まるで箍が外れたように日本人から誇りの感性が失われてきているような気がする。そのことは社会現象のように言われたりするけれども、誇りというものは、おのおの個人に立脚する問題であり、それを支え育てるのもまた個人としての人間なのである。この作品は、そのことをじんわりと再認識させてくれた。

 山本周五郎作品は、映画や舞台の原作として用いられることが極めて多いが、えてしてその演出はお涙頂戴になったり、やたらと説教臭がしたり、偽善的になったりしがちである。情緒の加減も、美学の提起も、人間の善意というものへの信頼も、この映画の、絶妙のバランスと言えるくらいの程よさで保ち通した作品には、滅多にお目に掛かれないような気がする。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2000acinemaindex.html#anchor000102
by ヤマ

'00. 2. 3. あたご劇場



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