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『さよなら渓谷』をめぐる談義編集採録 | |||||
ケイケイさん ヤマ(管理人) | |||||
ケイケイさんHPの掲示板にて (投稿日:2013年 7月12日(金)22時20分〜2013年 7月27日(土)23時31分) ヤマ(管理人) ケイケイさん、こんにちは。 最近、かぶりませんよねぇ(とほ)。このところ、観た映画の一致が少ないですねー。地方在住の悲哀を感じます(とほ)。 (ケイケイさん) ヤマさん、こんばんは。 私は『さよなら渓谷』を、是非ヤマさんにご覧になって欲しいです。 ヤマ(管理人) もちろん観たいです。原作を既に読了しているので、是非にも観たい! (ケイケイさん) 多いに語り合える作品なんですよー。 あのシーンこのシーン、特にヒロインの心が手に取るように理解出来てね。 お話したいなぁ。ヤマさん好みの作品ですよ。西川美和的作品ですけど、意地悪じゃないし(笑)。 ヤマ(管理人) 映画ではまだですが、原作を読んでいるので、少しはイケるかも。 ちなみに読書感想文は、こちらです。 (ケイケイさん) 大筋は同じみたいですね。 ヤマ(管理人) そんなら、ボチボチ(笑)。 -------そして始まった長尺談義(笑)------- (ケイケイさん) 私が感じた事は、小説は小林に語らしているみたいです。 映画では直接的な台詞はなかったと思うので、成功しているんでしょうね。 ヤマ(管理人) 感想文に引用した「尾崎俊介の前ならバレるも何もないから怯えなくて済む」という件ですか? (ケイケイさん) そうですね。そう言う直接的な表現はなかったような。でもあったかも(笑)。 この点が、不可思議な二人の関係を紐解く鍵ではあると、充分感じさせる演出でした。 >本作でかなこが俊作に関して嘘の証言をしたことや、程なくして撤回するとともに彼の元を立ち去ったことに僕は得心できなかった。 この辺は映画では、すごーく納得できましたよ。 ヤマ(管理人) 映画化作品を観るのが楽しみです。 ケイケイさんが映画日記に書いておいでの「かなこの心情がとても理解出来るのに対して、尾崎は説明不足に感じました。」との部分は、僕は原作小説を読んで、非常によくわかりました(笑)。これが原作小説と映画化作品の違いによるものか、ケイケイさんが映画日記に「これは私が女性だから、わからないのでしょうか?」とお書きのように、 我々の男女差によるものか、映画化作品で確認してみたく思います。 (ケイケイさん) 楽しみにしています(^-^)。 ヤマ(管理人) そういう意味でも読書感想文に引用してある、渡辺が小林杏奈に話した「男はどっかでそいつが何考えてんのか分るような気がするが、女はわからない」という素朴な感慨に通じる部分があるような気がしますね。 (ケイケイさん) このセリフはなかったと思います。 ヤマ(管理人) お〜、このセリフも主題的なものに繋がる重要なものなんですが、あまりにも直接的であるがゆえに割愛していることは大いに考えられます。 (ケイケイさん) 映画では「このままじゃ、幸せになりそうだったから」と尾崎が言うんですよ。その前のシーンに渓谷を見下ろしながら、かなこが「幸せになるために、一緒にいるんじゃない」と言うセリフがあったので、わかり易かったです。 ヤマ(管理人) かなこのそのセリフは、原作にもあります。とても重要なセリフですよね。小説から引用すると「私たちは幸せになろうと思って、一緒にいるんじゃない」(P191)と渡辺記者に対して答えたと、かなこが尾崎に伝えるんですけどね。 (ケイケイさん) そこはちょっと違いますね。 映画では、普通の夫婦のように温泉帰りの二人が渓谷を見下ろしながら、これからどうする?みたいな話になって、かなこが「結局私なのよね」と、尾崎に言うんですよ。私が決めなくちゃと言う意味だと取りました。その前か後に、「幸せになろうとして」以下のセリフを、尾崎に向かって言うんです。 ヤマ(管理人) 尾崎に直接言うのと、渡辺記者に漏らすのではずいぶん意味合いが異なる気がしますよね。でも、小説に直接描かれていなくても、尾崎に直接そう言ったことなどもあればこそ、 渡辺に漏らし得たというふうにも思えます。少なくとも、渡辺に答えたという形で尾崎にも直に伝えた言葉ではありますし。「……私が決めることなのよね」(P192)は、渓谷での二人の場面でのかなこの呟きとして原作小説にも出てきます。そして、彼女の決めたことが尾崎の前からの失踪だったわけです。 「……幸せになりそうだったんですよ」(P197)という尾崎のセリフも、原作小説では、渡辺記者に対して漏らすものです。 (ケイケイさん) これは同じです。 ヤマ(管理人) ふむふむ。 (ケイケイさん) 小説のほうで小林が「彼女は誰かに許して欲しかったんじゃないですか?」と言ったように書かれてるでしょう? 私は、あの時の軽率な行動に出た自分が許せなかったんじゃないかと感じたんです。 ヤマ(管理人) 僕の引用の仕方が悪かったかもしれませんが、原作小説で「私は誰かに許してほしかった。あの夜の若い自分の軽率な行動を、誰かに許してほしかった。でも……、でも、いくら頑張っても、誰も許してくれなかった……。私は、私を許してくれる人が欲しかった。」(P174)という痛切な心情を吐露しているのは、かなこ自身です。俊介と一緒にいる理由は話しませんが、この心情については渡辺に語ります。 (ケイケイさん) これはなかったように思います。 誰も許してくれない、それは自分が悪いからだと、かなこは思い込もうとしているんだと思うんですね。そうやって、人を信じると裏切られるし、自分を追い込んで辛うじて生きてきたんじゃないかなぁ。 だから、その状況を作った尾崎を、どんなに尽くして贖罪してくれても、容易には受け入れられない。愛して平穏に暮らすなんて、どうしても出来ない。結局周りが許してくれないのじゃなくて、彼女が自分を許せないんだと思うんです。 ヤマ(管理人) 勿論そういう時期もあったろうと思うのですが、彼女が大学のころに付き合った小川やひどい別れ方をされた米田、全てを受容して結婚したはずの青柳からのDVなどを経て、平穏とも不穏とも言える不思議なバランスのなかで尾崎との生活を続ける段において、最早そういう感覚の先にある地点に来ていたのじゃないかという気が僕はしています。 (ケイケイさん) かなこの男性歴は、名前はなかったけど、映画でも米田らしき人から語られてます。このへんは、小林か渡辺の取材でわかるようになっています。ヤマさんのおっしゃる「最早そういう感覚の先にある地点に来ていた」というのは、具体的にはどういう感覚ですか? ヤマ(管理人) これがよくわからないから… (ケイケイさん) うんうん、形はぼやっとわかるんですが、言葉で表すのは難しいですね。 ヤマ(管理人) だから、読書感想文のほうに「分らないながらも僕は、里美の嘘も夏美の嘘も“自分への憤りの転嫁”のように受け止めていたけれど、著者はそういうふうに描いているわけではなかった。その図式を取るといかにも男性的なロジカルな解釈と造形のように受け取られることを避けたのかもしれない。」と記しているのですが、強いて言うなれば、読書感想文のその段以下に綴っている、前便でも触れた「痛切な心情を吐露させていて、これこそが理由だったのかもしれないと思った。」ということになります。 (ケイケイさん) 多分ね、作者も かなこも わからないんですよ。監督はそれでいいと思っているから、読者も観客も、もやもやしたままなのじゃないですかね? ヤマ(管理人) 許せない自分への憤りの先にある地点がどんな感覚なのかは、明確ではないですが、平穏とも不穏とも言える不思議なバランスのなかでの尾崎との生活には、ある種の馴れ合いも睦み合いも生じていて、さりとてそこに幸福感は覚えられずに、どこか投げやりな“放り出し衝動”のようなものも秘めつつ、小林が代弁していたような“尾崎から得ているもの”に甘んじているような感覚とでも言えばいいのでしょうか。何ともむずかしいですね。 (ケイケイさん) こうやって関わりが深くなり、情が芽生えますよね。これは幸せの始まりですよ。 ヤマ(管理人) ところが、二人(かなこと尾崎)とも、それを素直に受け入れられないんですよね。それは、僕にもわかります。とりわけ尾崎はそうでしょう。でも、かなこのほうは、自身に戸惑いつつも次第に捉え直しができそうに思いました。そんなもんじゃないと言われれば、それまでなんですが、普通にはアンビリーバボーな尾崎との暮らしを重ねて来られたなかで得たものへの捉え直しというのは、ありそうな気がしてなりません。もっとも、それじゃ話が全く違う方向に動き始めますから、そうはならないんですが。 (ケイケイさん) 私もそう感じました。安息の日々が、事件以来始めて訪れたんですね。その事から愛情が湧くのは有りだと思いました。 ヤマ(管理人) ですよね。 -------妻を名乗った、かなこ------- (ケイケイさん) 尾崎が最初に事情聴取された時は、かなこの通報なしの段階ですよね。 ヤマ(管理人) そうですね。 (ケイケイさん) 帰って来ない尾崎を心配したかなこは、勤め先に尾崎が出勤しているかどうか尋ねていました。その時誰かと尋ねられて、一瞬間を置いて、「尾崎の妻です」って言うんです。後々思い起こせば、これは彼女の本音で願望だったんだと思いました。はぐらかす方法は、いくらでもあったでしょうから。原作にはありましたか? ヤマ(管理人) ありません。 最初の事情聴取のときは、かなこが夕方、せせらぎの温泉郷での仕事から戻ってきたときに、ちょうど工場の人から連絡があって知ったのでした。それで駅前で待っていたというかなこの不在中に、先に帰宅していた尾崎が、遅れて帰宅した彼女からその顛末を聞いて「もしかして心配して、駅で待ってたのか?」と問い、「普通、心配するでしょ」「ごめん。……なんでもないんだよ」「でも警察に呼ばれたんでしょ」「あの女が、またくだらないこと言い出したらしくてさ」「くだらないことって?」「知らないよ」(P58)という会話が交わされます。 (ケイケイさん) この会話は、事情聴取後、帰宅した時にやっぱりありました。あとから考えれば、もう「出来上がった二人」なのに、よそよそしくしなければ的だったんですねぇ。 ヤマ(管理人) 素直になれないというのはツラいことですよね。 (ケイケイさん) ヤマさんの引用を拝読すると、脚色は上手くできている感じですね。読書感想文にお書きの二人の道行は、映画でもとても丁寧に描写していましたよ。 ヤマ(管理人) 原作小説にはない濃厚シーンもあったりするんでしょうか。 (ケイケイさん) 直接的なセックスシーンはありましたよ。二人の家で。結構濃厚な感じはありました。 ヤマ(管理人) 一瞬、間を置いて「尾崎の妻です」と言う場面は原作には出てきませんが、原作小説では、尾崎が婚約者の元から姿を消して夏美と逃避行を重ねる場面に次のようなくだりがあります。 「二百万ほどの貯金など、三ヶ月も経たないうちになくなった。 彼女が北へ行くと言えば、黙ってついて行った。銀行で下ろした金を、その場で捨てろと言われれば、「君がそう望むなら」と素直に捨てた。そして、彼女が「死んでくれ」と泣けば、ただ謝るだけだった。…窓から吹雪の海岸が見下ろせる、とても小さな旅館だった。茶を持ってきた仲居が、どうしても宿帳に二人の名前を記入してくれと言った。決まりなのだと退かなかった。 そのとき夏美が、「妻 かなこ」と書いた。 仲居が去ったあと、彼女がとつぜん目の前で服を脱いだ。…俊介は思わず目を逸らした。窓を叩く雪よりも彼女の肌のほうが白かった。…ひどく痩せた彼女の裸を前にして、どうしていいのか分からなかった。…蛍光灯の下、彼女の裸体は痛々しく、無残だった。気がつけば、蹲って泣いていた。」(P173) 後々思い起こせば、これは彼女の本音で願望だったんだというような感興を呼び起こしてはくれませんでしたが、痛切で非常に印象深く残る場面でした。 (ケイケイさん) それは尾崎の贖罪の仕方のせいもありますよ。「俺、幸せになったら死ぬから」と言いますけど、男と女の間は、その時その時で変化するじゃないですか? だから、最初はどんなに理不尽な事されても、耐えて受け止める、それでいいんです。でもそれ以降の段階に、この二人は来たわけですよ。それを男は気づかない。あの嘘の証言は二人の分水嶺です。いつまでも「幸せになったら死ぬから」じゃなくて、かなこがどう言おうが、「俺が幸せにする」と言えば、かなこは出ていかなかったと思いますね。 ヤマ(管理人) お〜、これはとても納得感のあるご指摘です。本作の主題にも触れる部分ですね。“男は気づかない”は。渡辺にしても、尾崎にしても、その他もろもろにおいても、というわけですよね。 (ケイケイさん) うんうん、男は鈍感ですから(笑)。この感想は、上にヤマさんがお書きの、「最早そういう感覚の先にある地点」と関わっているように思います。 ヤマ(管理人) そうなんですよ。少なくともかなこは、自分を許せない感覚への囚われやら、尾崎の元を去ると彼を許したことになるといった感覚への囚われからは既に変化して行っていたろうと思うんですよね。だけど、尾崎は“気づかない”わけです。 (ケイケイさん) ここが元凶ですね(笑)。 ヤマ(管理人) ええ(笑)。でも、だからといって、警察に嘘の証言をしたり、その撤回後の尾崎の釈放を待って今度は失踪するというようなことをする理由になるとも思えないし、不可解でした。 (ケイケイさん) 尾崎は「かなこがそう言ったんですか?」と、それで罪を認めたでしょう?してもいないのに。 ヤマ(管理人) はい。小説でも、そのとおりです。 (ケイケイさん) とにかくどんな理不尽な事でも、無条件でかなこのする事は受け入れなくちゃいけないと思っている。特に傷つけられるような事は。 ヤマ(管理人) そのとおりです。 (ケイケイさん) 普通に帰ってきて、何も自分を責めない彼を見て、尾崎の本気さを痛切に感じたんじゃないですかね? そこで「幸せになっちゃいけない」が出てくると思うんですよ。だから、逃げたんじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) そこで「幸せになっちゃいけない」が出てくるというのが妙にわかんなくて、失うに決まっている幸せに近づくのが怖いから逃げたなら、わかります。 (ケイケイさん) ありがとうございます。 ヤマ(管理人) 原作小説では、帰ってきて何も自分を責めない彼に対して、後にせせらぎの温泉郷に行った際に渓流を見下ろしながら、こんな会話を交わします。 「……何も言わないんだね。」かなこがサンダルを揺らしながら呟く。「何にもって?」と俊介は訊いた。「私が嘘ついたせいで、何日も留置場に入れられて、嫌な思いしたんでしょ。ちょっとくらい怒ればいいのに」「怒る?」「だって、私の嘘で……」「俺に怒ってほしいのか?」俊介はかなこの顔を覗き込んだ。すっと視線を逸らせたかなこが、「あなたが留置場に入ってるとき、あの渡辺って記者に、何もかも話したよ」と話を変える。「何もかもって?」「だから、何もかも。私が何をしても、あなたは怒れない。私たちはそういう関係なんだって」「あの記者、なんか言ってたか?」「……それで幸せなのかって。それで満足なのかって。頻りに訊いてた。だから、私、答えたのよ。『私たちは幸せになろうと思って、一緒にいるんじゃない』って」 そのときだった。かなこの爪先で揺れていたサンダルが、すっとそこから離れた。「あっ」思わず俊介は声を漏らした。(P191) (ケイケイさん) 渡辺に言った、以下の会話はありましたが、渡辺に全部話したと言うだけで、幸せになろうと思って〜以下のセリフは、かなこは尾崎に向かって言ってたように思います。最初のほうの会話は、なかったと思いますが、ちょっと記憶が不確かです。 ヤマ(管理人) 一方、尾崎は留置場から帰った際に、こんなふうに感じていました。 たった数日間のことなのに、軋む廊下の感触まで懐かしい。たった数日、かなこと離れていただけなのに何もかもが懐かしかった。青白い蛍光灯の下で、かなこはこちらに背中を向けてテレビを見ていた。「ただいま」その背中にもう一度、声をかけた。ゆっくりと振り向いたかなこが、「おかえり」と、小声で言ったきり、じっと見つめてくる。何をどう伝えればいいのか分からなかった。かなこがついた嘘を責める気持ちなどもちろんない。かといって、かなこが真実を告げてくれたことに対して、「ありがとう」と礼を言えば、逆にかなこを傷つけてしまうに決まっている。批難もできない、礼も言えない。たぶん、それが自分たちの関係なのだと、改めて思い知らされる。(P183〜4) (ケイケイさん) かなこが真実を告げてくれたという件は、かなこが警察に自分の言った事を翻したって事でしょうか? これは子殺しの犯人女性が、尾崎は無関係だと証言したと、映画では描かれています。 また、こういう懐かしさは、画面からは感じませんでしたね。何もなかったように、時間は過ぎていましたが。 ヤマ(管理人) そのうえで、尾崎がいつまで経っても「批難もできない、礼も言えない…関係」に留まっているから、その顛末として、「結局私なのよね」と彼女の決めたことが、失踪による“赦しの意思表示”と“私を探しに来て”という求愛のメッセージという形になることに、何か釈然としないというか、男性作家的な図式性を感じたわけです。 (ケイケイさん) 前のレスにも書いたけど、女性でもありますよ、こういう感覚。ただ私はあんまり「探して」は想起しませんでしたけど。自分は幸せにはなれないという感情が強い人だと思いましたから。 ヤマ(管理人) このへん、映画化作品では、真木よう子が上手く演じていたんでしょうね。 (ケイケイさん) 良かったですよ、今までの彼女で一番良かったです。 ヤマ(管理人) う〜む、やっぱ是非とも観たいものだ! (ケイケイさん) 大阪でまだやってます(笑)。この役は女性の共感を得ないと、失敗な作品だと思うんです。充分責任を果たしていました。 -------“男は気づかない”という鈍感------- ヤマ(管理人) 初期設定や一貫性に囚われがちなのが男のほうだというのは間違いないように思います。女性は、いたって融通無碍というか、時に気分次第とさえも(笑)。 (ケイケイさん) 女心と秋の空だけではなく、年柄年中に思えますか?(笑) 若い時は女性ホルモンの活動も活発ですから(笑)。 ヤマ(管理人) まぁねぇ、その掴みどころのなさというか捉えにくさって、魅力の側面もあるからタチが悪い(笑)。グレイト・ギャツビーも煮え切らないデイジーの心を測り兼ねたまま翻弄されてましたけどね。 (ケイケイさん) あれはお互い様ですよ。ギャツビーは幻の夢の女を追いかけていたんだし、デイジーも青春時代の自分を追いかけていたわけでしょう? 私は悪い意味でお似合いの二人だと思います(笑)。 ヤマ(管理人) そうであればこそ、僕は“さよなら渓谷”後のかなこの失踪に、初期設定や一貫性に囚われがちという意味での男性性を感じ、作者が男性なんで、そういう図式にしたような気がしてなりませんでした。 映画には出てきていなかったかもしれない、かなこが尾崎に言った重要なセリフ「どうしても、あなたが許せない。私が死んで、あなたが幸せになるのなら、私は絶対に死にたくない。あなたが死んで、あなたの苦しみがなくなるのなら、私は決してあなたを死なせない。だから私は死にもしないし、あなたの前から消えない。だって、私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから。」(P175)というのが、どうしても引っかかるようになるわけですね。 (ケイケイさん) ありましたよ、映画でも。 ヤマ(管理人) つまり、彼女の失踪とは、ようやく辿り着いた尾崎への“赦しの意思表示”であると同時に“私を探しに来て”という求愛のメッセージだという形になる気がするのです。 (ケイケイさん) 私は赦ししか感じませんでしたけど、確かに探して欲しいと思っていたかも? ヤマ(管理人) でも、それって体感的な行動規範じゃなくて、けっこう観念的というか美学的でしょ。探してほしいから、姿を消すっていうのはリアル系ではない気がしますもん。 (ケイケイさん) それ以外に、やはり背徳だと思う気持ちが彼女にあったように思うんです。自分を許せないままなので、尾崎とは暮らせない、幸せになってはいけないと思ったんじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) 女性って、そんなに自己に対して厳しいものなんですか?(笑) もちろん性差よりも個体差のほうが大きい事柄なんでしょうが、自分に褒美をあげたがるのは、僕は断然、女性のほうだろうという気がしているのですが(笑)。 (ケイケイさん) それは「普通」の女性の感覚ですよ。 ヤマ(管理人) 普通の女性は、やっぱ、そうですか!(笑) (ケイケイさん) もちろん!(笑) だから私も今まで苦労したご褒美に、夫をいじめている訳ですよ(笑)。 ヤマ(管理人) ご主人は、尾崎のように「たぶん、それが自分たちの関係なのだと、改めて思い知らされ」ているんでしょうか?(笑) (ケイケイさん) わはは、多分(笑)。 それはともかく、彼女はレイプ被害者です。一生癒えない傷を負わされた上に、その傷に塩を塗られるような人生を歩んでいた訳です。もう幸せになれない、思っちゃいけないと、不幸せ願望と言うか、そういう気持ちになるのは、私はわかる気がするんですね。 私は幸いにもそういう経験はないですが、どんなに恐ろしく恥ずかしく、そして絶望する出来事か、それは容易に想像できるんです。年齢から考えて、バージンだった可能性も高いですしね。かなこを普通の女性として見ては、彼女の心は紐解けないと思います。 ヤマ(管理人) なるほどね。では、「日めくりのカレンダーを一日一日めくっているような生活でした。ここでの尾崎との生活は、十二月三十一日の、次の日がない紙を、毎日毎日めくり続けているようなものでした。 一緒にここで暮らそうと言い出したのは、私からです。」(P173)と原作に描かれている彼女が、尾崎との生活を始めた心境について、ケイケイさんは、どのように解しておいでますか? (ケイケイさん) これって未来がない、見えないと言う意味ですよね。描かれた道行で、段々彼女が変化していったのがわかるんです。 ヤマ(管理人) この「描かれた道行」というのは、尾崎との生活を始める前の尾崎が婚約者の元から失踪したときの二人での逃避行のことですか? それとも、尾崎が留置場から帰ってきてからの「せせらぎの温泉郷」行きのことですか? (ケイケイさん) 二人での逃避行のほうです。 また、最後のほうでは、ついて来ないで!と言いながら、尾崎が来るのを待っていました。陸橋の上のシーンです。 ヤマ(管理人) 陸橋ということは、サンダルを落とした渓谷の橋じゃないんですよね。 (ケイケイさん) ええ、陸橋です。渓谷じゃなく。 ヤマ(管理人) それなら、逃避行時のことかと思いますが、原作にはその場面はないです。 (ケイケイさん) このシーンがとても印象深くてね、とても自然にかなこの心が私に入ってきたんです。 甘えているんだと感じて、もう涙が出ちゃって。男性に甘える事は、事件以来許されなかったと思います。この道行が大きかったと思うんです。誰にも怯えず、普通の暮らしがしたいと思ったら、尾崎しかいなかったんじゃないですか? ヤマ(管理人) やはり、尾崎との暮らしを始める前の、原作で「口にはしませんでしたが、私は死に場所を探していたのだと思います。そして、おそらく尾崎もそれをわかって、一緒にいたのだと思います」(P174)と書かれている旅のことを指しているんですね。 (ケイケイさん) そうです。尾崎が付いていったのは、自死が心配だったと感じていました。 だから、やっぱりあの失踪は「赦し」だけのような気がします。自分との関係から、解放してあげたのが、彼女の愛の証のような気がします。 ヤマ(管理人) 尾崎を赦し、愛し始めながら、自分が幸せになることを禁じ、「自分との関係からの解放」が“愛の証”だと考えたとするなら、尾崎同様に、彼女も「気づいてない」ってことになりゃしませんか?(笑) (ケイケイさん) 気づいているから、逃げた(笑)。それはやっぱり怖いからでしょうね、幸せが。 ヤマ(管理人) なるほど。 (ケイケイさん) だからそこでひと押し、尾崎が「俺が幸せにする」と言えば、彼女はまだあそこに居たと思います。 ヤマ(管理人) 「幸せになっちゃいけない自分」という強迫も、その一言があれば、超えられるんですか? (ケイケイさん) きっとかなこは、受け入れる=愛している、というのは嫌だったんじゃないかと。それこそ、その段階は過ぎているし。守ってくれる=愛しているという形が欲しかったんじゃないですかね? 私がかなこなら、そうですね。 ヤマ(管理人) それが、そんなに違うんですかね?(笑) めんどくさいなぁ、女性は…(あは)。 (ケイケイさん) それが女性です(笑)。深くて長い河が流れてるんですから(笑)。 でも、尾崎は尾崎で、その言葉を自分は言える資格がないと思っていたんじゃないですかね? ヤマ(管理人) ええ。それはそのとおりだと思います。 (ケイケイさん) 「絶対かなこを探す」という言葉は、愛しているとイコールでしょう? ヤマ(管理人) ええ。渡辺記者には言えても、彼女には言えなかった言葉でしょうね。探すまでもなく目の前にいるときなら、「探す」ではなく「放さない」ですが。 (ケイケイさん) 男性と女性は言葉の捉え方が違うんですよ。「絶対探す」的な言葉を言うのは、やっぱりかなこ本人じゃなきゃ。男性は愛しているんだから、どれもこれも同じだと思ってません?(笑) ヤマ(管理人) 思ってます(断言)。 (ケイケイさん) 違いますから(笑)。 ヤマ(管理人) でも、言うなら本人に言わなきゃってのは、同感です。だから、そうなると探すじゃなくて「放さない」となりますがって書いたんですよ。 (ケイケイさん) ヤマさんの解釈のお蔭で、同義語だと感じています。でもやっぱり本人に言わなくちゃね。 -------単に鈍感だっただけなのか------- (ケイケイさん) 不幸な出会いをしてしまったが故、素直な自分をさらけ出せないもどかしさ、それがとてもよく伝わってきましたよ。 ヤマ(管理人) 原作の締め括りも、まさにそれでした。渡辺が尾崎に次のように質問するんです。「……あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」(P199) (ケイケイさん) 映画もそうですね。 ヤマ(管理人) ほう。原作では、この後は2センテンスの1行なんですが、 映画はどうなっているか、楽しみだなぁ。 でもって、この質問に続く1行で原作は終わります。どんな1行(2センテンス)になっていると思われます? (ケイケイさん) ナンパした時に戻って、普通の恋人同士として付き合いたい、かな? ヤマ(管理人) 2センテンスじゃないですやん。ま、それはともかく、渡辺の質問に対して、「尾崎は『ナンパした時に戻って、普通の恋人同士として付き合いたいですね』と答えた。」と書いて小説を終えるんですか?(笑) ケイケイさん、小説家は向いてないかも(あは)。 (ケイケイさん) 読むだけにしときます(笑)。 ヤマ(管理人) 最後の1行は「尾崎は瞬きもせずに、渡辺を見つめていた。その瞳の奥に、渡辺はその答えを見つけた。」(P199)です。僕には見つけられない答えを渡辺が見つけた気になれるのは、瞳の奥を観ることができたからかもしれませんね。 でも、かなこの失踪を「ようやく辿り着いた尾崎への“赦しの意思表示”であると同時に“私を探しに来て”という求愛のメッセージ」っていう形のものにするのは、非常に男性的なロジカルな図式であって、女性はそんなことはしないんじゃないかって、僕などは思ってしまうんですよね。だから、彼女の失踪が腑に落ちない気がしたし、… (ケイケイさん) いやいや、これは男性的ではなく、女性も納得出来ます。と言うか、むしろ女性的だと私は思いました。 ヤマ(管理人) お〜、そうなんですか!(瞠目) (ケイケイさん) 逃げるのは女のほうが似合っているし(笑)。 ヤマ(管理人) 初期の段での“恋の駆け引き”的手管とは違うんですから!(笑) (ケイケイさん) かなこも怖いんですよ。もしこのまま幸せになっても、前夫と別の意味で尾崎に裏切られたら?とか、絶対思いますよ。もう絶望したくないんだと思うんです。 ヤマ(管理人) なるほどね。幸せになっちゃいけないとか、自分を許せないとかいうより、幸せになれるはずのない自分が一時的にそうなってしまっても必ず失うのだから、そのダメージが怖いということで、あらかじめ逃げてしまうという感覚ですか。 (ケイケイさん) そうです、そうです。 ヤマ(管理人) うん、それなら肚に入りやすいですね。かなこの心境は、そうだったのでしょう。 (ケイケイさん) ありがとうございます。 ヤマ(管理人) いやぁ、吉田修一にうまく嵌められたような気がします。普通に、素直に考えれば、そう解していくのが最も真っ当ですよね。でも、原作の奴、なかなか上手いんですよ。女が分からないと繰り返してた渡辺に、最後の場面で言わせている台詞に、僕は攪乱されていたようです。 「「でも」と言いかけて、渡辺は言葉を呑んだ。 インタビューの最後で、かなこの呟いた言葉がふと蘇る。 「私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから」 彼女は尾崎にそう言ったのだ。 姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう。「さよなら」と書き置きしたかなこの言葉が、渡辺の胸に重く伸しかかる。」(P198) これって、渡辺が囚われたかなこの言葉であって、作者がそう解しているわけではなく、むしろ女性が分かってないからこそ、換言すれば、なぜ失踪したかが分かってないからこそ、こんな捉え方をするわけで、こういうズレ、すれ違いこそが男と女の間にある大きな溝だということを敢えて描いていたのかもしれないという気がしてきました。うん、これは大きな収穫だな。男性的なロジックの図式に囚われているのは、渡辺であって、書き手ではないようです。 (ケイケイさん) 私は原作は未読ですけど、渡辺と妻との諍いを見て、こいつも鈍感だなと痛感していたので(笑)、ヤマさんの解釈はあたっている気がします。 ヤマさんのお聞きしたいんですが、昨今の男性も女性の処女性には拘らなくなっていますよね? なのに、普通に男性経験があると可、なのに、やっぱりレイプだと汚れた女性に見えるんでしょうか? 女性に隙があるからと言う、世間の目と合致するんでしょうか? このへん私から見ると、とても理不尽な気がします。 ヤマ(管理人) 僕もきわめて理不尽だと思います。僕自身は、レイプされたという女性に個人的に相対したことがないので、自分がその時どのように感じるか、についての実体験はありませんが、少なくとも汚れた女性に見えるということはないと思ってます。また、女性に隙があるから、などという感覚も持ち合わせていません。 (ケイケイさん) そう伺うと安心します。ヤマさんのような男性も多いんでしょうね。 ヤマ(管理人) でも、本作で夏美のDV夫になった青柳がまさしく、隠して付き合ってバレることに懲りた夏美の告白に対し「ありがとう。……言ってくれて、ありがとう」って、そう言ったようです。「予想もしていなかった言葉でした。この話をするのがどれくらい辛かったか、俺にも分かるって、青柳は言いました。自分のことを信用してくれたことを、心から嬉しく思うって。…青柳から正式にプロポーズされたのは、それから数日後のことでした。『夏美ちゃんと結婚したいと思う。一生、夏美ちゃんを大切にできるって、自信を持って言える』青柳はそう言ったんです。」(P162)という形で始めた結婚生活の一年も経たない頃にはもう、暴力をふるって「お、お前が悪いんだからな」って泣くようになっているわけですよ。 また、結婚を決めたらしい一人息子のために、両親が身上調査をして出てきた結果に耐えられなかった米田という男は「俺はお前と結婚したいと思ってる。親の意見なんてどうでもいいんだよ。…でも、無理なんだよ。自分の嫁さんが、昔、男たちに寄ってたかって犯された女なんだと思うと、自分が貧乏くじ引かされたような気がするんだよ」(P159)って泣くわけです。 (ケイケイさん) こういう感覚って、怒りよりもやるせないですよ。誰が悪いんだろう?ってなると、レイプ犯ですよね? それがどこにも出てこない。 ヤマ(管理人) 自分は、青柳とも米田とも違うと信じていることが只の思い込みではないことの証は実際に試されたことがないなかでの確信でしかないですね。 (ケイケイさん) それでも嬉しいです。映画では渡辺は「自信がない」と言ってましたから。 ヤマ(管理人) 夏美が両親の離婚の遠因でもあるように感じているレイプ被害によって受けた傷の深さは、本作におけるかなこがそうだったように、非常に逆説的な話ですが、加害者によってしか癒されることがないくらい、誰にも手の届かない領域にあるのかもしれません。合意もしくは非合意での男性経験が手におえないのではなく、非合意だったことで負っている傷の深さが手におえないということはあるような気がします。 (ケイケイさん) この感覚は、映画を通じてとてもよく伝わってきます。理不尽にかなこの心身をいたぶった男性たちの存在は、この感情を際立たせるためには必要ですね。 ヤマ(管理人) 「どうすれば償えるのか」と問うても答えがない加害者同様に、「どうすれば癒してあげられるのか」と問うてもおいそれとは答えの見つからない難問に怯みさえしないと断言できる自負も持ちえないのが正直なところですが、あまりに重い難題に苦悶しながらも、何とかしてやりたいとのぼせ上がるかもしれません(たは)。 (ケイケイさん) 誠実な感想、ありがとうございます(^-^)。この作品の尾崎を観ていると、すごく「女々しい」感じがしてたんですよ。レイプという、暴力的な行為に及んだ人にはとても思えない。それも意図的なんだとは感じています。 ヤマ(管理人) これは、そのとおりだと僕も思います。夏美にしてもそうですよね。『悪人』の祐一も「殺人という、暴力的な行為に及んだ人にはとても思えない」ですし。彼に殺された佳乃に差した“魔”も、夏美に差した“魔”と同じようなものだったのかもしれません。 -------女(かなこ)の嘘と男(尾崎)の罪悪感------- ヤマ(管理人) 失踪の意味づけと同様の図式的な心理構造のようなものを、「(尾崎を)陥れたいと思わなければならないと感じていたのだ」(P177)と渡辺に感じさせるような偽証を夏美がしてしまうことにも感じ取ってしまって、「本作でかなこが俊介に関して嘘の証言をしたことや、程なくして撤回するとともに彼の元を立ち去ったことに僕は得心できなかった。」と読書感想文に綴ったのでした。 面白いなと思ったのは「俺、幸せになったら死ぬから」などというセリフは原作小説にはなかったのに、映画化作品にはあって、ずばりケイケイさんが衝いておいでの“男の頓珍漢ぶり”があからさまに浮かび上がってきている点です。原作とは、そのあたりの趣向が微妙に違ってきているのかもしれません。 (ケイケイさん) ここ、聞き取りにくかったんですけど、多分そう言ってたと思います。確かに女の側からすると、あぁ!と脱力する台詞ですけど、でも女々しい尾崎には似合ってるんですね(笑)。 私は反対に、何故集団でレイプしたのに、尾崎だけが強く罪悪感を持ち続けていたのか、其の辺の処理が映画では曖昧に感じました。 ヤマ(管理人) これはもう、一口に男といってもいろいろですから、須田、赤坂、藤本、青柳、渡辺、松本とさまざまあるなかで、尾崎のような男がいても何ら不思議はなく、違和感ありませんでした。罪悪感とは違う形であっても、須田や赤坂には痕跡が刻まれていたわけですし、むしろ特異なのは藤本だったという観方もできそうに思いますよ。 (ケイケイさん) 藤本って、尾崎が株券売った社長で後輩ですよね? 映画は彼しか出てきてません。他の人も出てきてたら納得できたかもしれませんが、その点は端折ってますね。 ヤマ(管理人) 藤本に尾崎が株を売る場面は、小説にはなかったような気がします。原作での藤本は、須田、赤坂と同様に、尾崎と一緒にレイプを犯した四人組の一人です。 (ケイケイさん) 藤本という名前かどうかは失念しましたが、後輩がひとりいて、それが新井浩文が演じていて、「僕はやってなかったけど、その場にいたので捕まり迷惑した」みたいな事を言ってました。 映画でも尾崎のかなことの再会は結婚直前と描かれていましたし、かなり時間が経っているわけでね。 ヤマ(管理人) 再会のタイミングは同じでも、少し描かれ方が違うのではないかという気がしてきました。 (ケイケイさん) タイミングもでしょうし、上司の妹で、出世が約束されているという描写はなかったです。新居の下見に行っているとき、「お金貸して」とかなこから電話が入り、そのまま二人で逃避行で現在に至る、って感じで描いていました。 ヤマ(管理人) そこは、原作のイメージでも、そのとおりです。 -----半年後の映画化作品観賞(映画日誌)と白いサンダル------- (ケイケイさん)2014年02月17日 19:32 >テレビ作品以下の安っぽさを印象付けられて、唖然としたのだが、劇場公開版でも こんな画像だったのだろうか。 私はリーブルで観ましたが、そんな印象はなかったですねぇ。 >それでも、やはり“白いサンダル”は違うんじゃないか?という気がした。 サンダルが落ちた事は印象的だったですが、色まで重要とは思いませんでした。 なぜ色が重要なんでしょうか? >本作では、オープニングの夏の場面に息苦しいまでの蒸し暑さにうだるようなものが宿っていなければならないはずで、それがあってこその濡れ場での開幕なのに、くっきり画面に、びょっしょり汗を浮かせることさえしていないものだから、 汗かいてましたよ。少なくとも俊介は。私はうだるような夏の中、戸を締め切っての夫婦の営みを、ズシンと感じましたから。映りが悪かったからですかね? ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん、 ちょうど土日のファスビンダー特集で『マリア・ブラウンの結婚』を観たところだったからか、米兵ビル(ジョージ・バード)の黒い肌に浮いた玉のような汗が滅法美しく、印象深かったからかもしれません。俊介の汗は、他の場面でのTシャツが濡れている様子などでの印象はありますが、それ以外にはあまり覚えてないなぁ。 映りが悪かったというよりも映りすぎのくっきり感が画面を平板にしていた気がします。ま、実際に映っていたもの以上に、観る側に効果として残しているもののほうが重要でしょうから、汗が映っていたにしろ、映っていなかったにしろ、要は“うだるような夏の中、戸を締め切っての夫婦の営み”を冒頭に感じられたなら、それと対になっているようなラストの渓谷で涼風も感じられたことでしょうから、良かったですね。 そのほうが断然お得ですし。 『アマデウス』や『愛のコリーダ』を再見したときに、力のある映画というものは、ときとして画面に映し出してもいないものを観客に見せてくれるものだと実感した覚えがあり、もしかすると、それこそ映画という幻の持つ最大の意味なのかもしれないと愕然としたことがあるんですが、パーソナルな体験としての映画観賞の醍醐味のような気もしています。 サンダルの色のほうは、何なんでしょうかね? 重要性とかいうのではなく、なんか違和感っていう感じでした。あれ?って思って原作に当たったわけですからね。単なる違和感なので、そう重要だと思っているわけではありません。 リーブルのスクリーンで観て、安っぽい画像印象がなかったということなら、どうやら当地の施設側の問題のようですね。次の次の拙サイトの更新でアップする映画日誌には、「画像の差異によって、確実に印象は変わってくるはずで、自分としては大いに気になっている。施設の側の問題なのか作品の問題なのか、ここでの他の上映会も観てみないと即断しにくいところだ。」と綴っているのですが、何だか前者っぽくって残念だなぁ。 ヤマ(管理人)2014年03月27日 06:54 ケイケイさん、こんにちは。 今ごろになってナンですが、ご質問いただいた「“白いサンダル”は違うんじゃないか?」との僕の違和感の理由、ちょっと思い当ることが浮かんだので、こちらにお邪魔しました。 たぶん僕は、あの落ちていくサンダルに、夏美の身投げのイメージを受け取り、その色には、彼女のカラーイメージを受け取っていたのでしょうね。そしたらやはり苛烈な人生に追いやられた彼女に、いくらなんでも“白”はないだろうと感じたのではないかという気が今はしています。 (ケイケイさん) なるほど、そういう見方はありですね。後戻り出来ないから、純白の象徴の白のサンダルが落ちた、という見方はどうですか? ヤマ(管理人) なるほど。その着想から触発されて“白紙に戻す”というイメージが浮かびました。 そのように解すれば、僕なりに彼女が尾崎の前から姿を消した理由も明確になってきます(礼)。つまり、尾崎が追ってくるにせよ、来ないにせよ、二人の関係を一旦白紙に戻してやり直したかったのかもしれないと思いました。報復と贖罪によるもたれ合いを居場所のない者同士で交わすなかで馴れ合うようにして営み始めても“愛の萌芽”は上手く育てられない気がしたのでしょうね。 もし尾崎と運命で繋がっているのならば、いったん白紙に戻したうえで、きちんと“愛”から再開したいと思ったのかもしれないですね。追ってきてくれなければ、それはそれで元々清算すべき関係だったはずとの思いもあったかも。 ようやくその踏ん切りをつけることが彼女に出来たのは、「死んでよ」とは言っても殺すことまでは出来なかった彼女が、思わぬ事件に巻き込まれるなかで偽証という形で尾崎を実際に葬ることができたからでしょうね。 おそらくは、そのことで彼女のなかに生じたと思われる“尾崎に対する罪悪感”というものへの思いがけなさから“愛の萌芽”を意識するとともに、自分が尾崎を許し始めていることを認めざるを得なくなったからではないかという気がします。 (ケイケイさん) これはあるでしょうね。 彼女も事件で人生狂わせられましたが、尾崎も彼女によって、人生が狂ってしまったんです。特に尾崎の場合は、かなこに対して自覚があるし、尾崎には積極的にそういう気持ちあったでしょう? それが彼なりの贖罪だったろうし。 ヤマ(管理人) いやぁ、よい触発をいただきました(礼)。サンダルの色がピンクであろうが白であろうが、彼女の心境はそのようなものだったような気がします。そして、映画の作り手としては、サンダルを白に変えるほうが、より明確にそのようなニュアンスを表現できると考えたのかもしれないですね。どうもありがとうございました。 (ケイケイさん) サンダルの色、やっぱり意味があったようですね。 ヤマ(管理人) ところで、日記にお書きの「幾重にも対比になっている」との部分、肝ですよね。記者にしても、編集長と渡辺と小林の三つの対比が肝要ですし、御指摘のように、婚姻カップルの渡辺と非婚カップルの尾崎の対照、とても重要です。さすればこそ、渡辺のある種の気づきによる“夫婦関係修復の予感”と夏美を追うであろう尾崎のある種の覚悟による“夫婦関係獲得の予感”とが折り込まれている物語のように、僕も受け取りたいと思っています。 そこで、夏美の失踪ですが、ケイケイさんは、何ゆえ彼女が尾崎の前から去ったと受け止めておいでですか? (ケイケイさん) 尾崎を好きになりそうだったからと思います。というか、多分もう愛していたんでしょうね。でも、それは彼女的には許されないんでしょう。何故なら、その他の強姦相手、理不尽な辛さを彼女に負わせた相手、世間を許すことになってしまうから。幸せになっちゃ、許してしまうことなんだと思います。 彼女は当時軽はずみに付いていった、自分自身も、まだ許せていないと思います。そんな呪縛から、早く解き放たれて欲しいと、説に思いますね。「かなこを必ず探す」という尾崎の言葉は、私は本当に嬉しかったです。 | |||||
編集採録by ヤマ 2013年 7月12日〜2014年 3月28日 | |||||
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