『さよなら渓谷』を読んで
吉田修一 著<新潮社>


 映画化作品パレード悪人を観て気になっていた作家の小説を初めて読んだ。『パレード』の映画日誌に綴った少々持て余し気味な“エネルギーの過剰さをもたらす若さ”という厄介が引き起こした禍根の痛恨さを描いて余すところの無い作品で、『悪人』にて示されていた人間観と重ね合わせてみると、なおさら味わい深いように思った。

 それにしても、映画『悪人』で祐一が佳乃を殺害してしまったことも、光代の首を絞めたことも易々と理解できたのに、本作でかなこが俊介に関して嘘の証言をしたことや、程なくして撤回するとともに彼の元を立ち去ったことに僕は得心できなかった。

 まさに渡辺が小林杏奈に話した……俺、自分は男だからさ、女のことは分らないもんだって、ずっとそう思ってきたんだ……ごめん。いや、でも本当にそう思うんだ。俺らの仕事って、たいてい犯罪者を追いかけてるだろ。みんなで取り囲んで、乱暴にマイク突きつけてさ。その取材相手が男なら、なんとなく分るんだよ。いや、そう思い込んでるだけかもしれないけど、その、マイクを持った自分の腕をさ、そんなに、強く、強く、突っ込まなくても、どっかで相手の思ってることっていうか、もちろん嘘つく奴のほうが多いけど、それでもどっかで自分と同じ男だって気を許してるところがあってさ、手加減ってわけじゃないけど、相手が何も答えなくても、うまい嘘ついても、どっかでそいつが何考えてんのか分るような気がするんだよ。いや、もちろん分っちゃいないんだけどさ。こいつを殴りさえすれば晴れる程度の、言ってみれば直情的な憤りなんだよ。でも、これが女相手になると、本当に分かんないんだよ。なんで何も答えないのか。なんでそんな見え透いた嘘をつくのか。…(P142)
 この台詞自体は、女性が、単に“他者”への恐れに留まらず、男性に対する恐怖を潜在的に抱いているものであることを偲ばせるとともに、そのように感じさせている男の側がそのことに実に無自覚であることへの気付きを促すために設えられていたように思うのだが、分らないながらも僕は、里美の嘘も夏美の嘘も自分への憤りの転嫁のように受け止めていたけれど、著者はそういうふうに描いているわけではなかった。その図式を取るといかにも男性的なロジカルな解釈と造形のように受け取られることを避けたのかもしれない。

 そういう意味では、敢えて女性たる小林杏奈の台詞にして語らせているその尾崎俊介の前では、もうバレる心配がないんですよね。だって、その犯人なんだもん。ずっとビクビク暮らしてて、彼女なりに一生懸命がんばって、でも、結局ずっとヒドい目ばかりで……。尾崎の前なら怯えなくてもいいんですよね。そいつの前なら、もうバレてるんだから怖くないんですよね。たとえどんなにその人のことを憎んでても(P141)という解釈には大いに納得感があったのだが、さればこそ、ある意味、男性的なロジカルな解釈ということになるのかもしれない。男性たる作者は周到にも夏美自身には、その理由を直接的には語らせていなかったが、私は誰かに許してほしかった。あの夜の若い自分の軽率な行動を、誰かに許してほしかった。でも……、でも、いくら頑張っても、誰も許してくれなかった……。私は、私を許してくれる人が欲しかった。(P174)という痛切な心情を吐露させていて、これこそが理由だったのかもしれないと思った。

 小林杏奈の彼女の人生についてですか? そりゃ……、言ってみれば、何度も何度もレイプされたようなもんですよ! 事件のあと、彼女なりにがんばったんだと、私は思いますよ。自分でも忘れようとしたんだろうし、生まれ変わろうと必死だったはずですよ。でも、結局、誰も忘れてくれない……。ヒドい話ですよ(P90)との言葉に如実に表れていたように、いつまでも許されることなく罰を受けているという点では、被害者たる夏美の取った「あの夜の若い自分の軽率な行動」こそが“罪”として扱われていることになり、尾崎俊介のほうの「あの夜の若い自分の軽率な行動」は、れっきとした犯罪ながら、彼自身の言葉によるとおりあんな事件を起こした俺を、世間は許してくれるんですよ。驚くほどあっさりと許してくれるんです。…許すことで自分が男だってことを改めて確認するみたいに。だから、俺も自分で自分を許そうとしました。許さなければ、許してくれる男たちの中には入れなかったんです。そこにしか、生きていける場所がなかったんです(P175)という形で免罪されることが描かれていたが、この台詞には、何年か前に自民党の太田誠一議員が「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。」などと公の場でうっかり発言したりしたことが大きく影響を与えているような気がした。

 だが、次期営業部長の美人の妹さんと婚約して、さぁ、これで将来も安泰ってときに、この尾崎さん、何が不満だったのか、とつぜん姿を消してるんですよ。…もったいないですよね。あんな事件を起こしたにしては、ある意味、順風満帆だったのに……。ここで踏ん張ってれば良かったのになぁ。営業成績もかなり良かったらしいですよ。とにかく遅くまで働いて、いわゆる体育会の名残か、先輩たちに誘われれば、いつまでも酒に付き合って、それでも翌朝は誰よりも早く出社してたって話ですし(P81)と語られる俊介は、同じ場所にいたからと言って、全てが同じ方向に進むわけではないことは、渡辺にも分っている。しかし、陰惨な事件と、この藤本尚人のその後の経歴には、一人の少女というよりも、それに関わった全ての人間を、どこかでせせら笑っているような印象がある(P118)と記された藤本尚人とは違って、もちろん自業自得だとは分っていても、あの夜に戻れたら、あの夜の何かに憑かれたような昂りを鎮めることができたらと、自分の身体を切り刻みたいような衝動に駆られる夜もあった。どうしてあの日、夏美たちはあの場所にいたのか。どうしてあの夜、夏美たちは寮についてきたのか。身勝手な苛立ちにどうしようもなくなっていく(P131)わけだ。

 映画『悪人』を観たときの日誌に綴った「悪人とはなにか」を問い直したときに、悪で100%満たされた人間などいようはずもなく、せいぜいで“悪行を為した人”としか言いようがないとすれば、この世に悪人ならざる人など誰一人いないことを示していたような気がすると感じた点から言えば、さらに一歩進んで親鸞の悪人正機説ばりに、悪行を為したが故により深く人間を、人の生を、見つめ受け止めるようになった人物として尾崎俊介を描いていたように思う。

 それにしても、これで、尾崎の奴があの女との関係を吐いてくれれば、久しぶりに紙面でもデカい扱いできるんだけどね。『息子を殺した女の情夫は、元レイプ犯』なんて、自分で書いてて出来過ぎだろうと思うけど、でも、今の世の中、これぐらいのインパクトないと、誰も面白がってくれないからね。(P112)といった形の事件報道を淘汰していく術はないものだろうか。本音は“面白がり”に他ならないのに、社会正義を標榜し、犯罪の抑止(防止)や処罰を装うような醜怪さだけは何とかしたいものだ。

 大いに感心したのは、立花里美による四歳の息子殺しの事件を扱いながら、そこには一切立ち入らずに十六年前の尾崎俊介たちの犯罪を描くことで、里美の事件への視座をも引き出している点だった。ちょうど映画『悪人』の日誌に綴った(増尾・佳乃の)二人についても悪というよりは哀れのほうが色濃くなってくるわけで、そういったことに思いが及べば、彼らとて、事件を起こした祐一や光代についてマスコミが報じるであろう人物像が決して実像ではないのと同様に、憎まれ役の増尾、汚れ役の佳乃と受け取るべきものではなくなってくるし、同じことが祐一の母である依子についても言えるような気がしてくると同じようなことを感じた。




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by ヤマ

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