『さよなら渓谷』
監督 大森立嗣


 僕には珍しいことなのだが、三年余り前に吉田修一の原作のほうを先に読んでいて、その痛切で重厚な主題と濃密に描出されていた情感に触れているので、その既読部分で補っているものがあるのかもしれないが、真木よう子も大西信満も、それなりによく演じていたように思う。それでも映画化作品は、原作に全く及ばない出来栄えのような気がした。

 原作小説は、人間というものの奥深いところを捉えて、映画悪人以上に、痛切でひりひりするような作品だった。それなのに、最後の場面での雑誌記者渡辺(大森南朋)の台詞が、あれほど安っぽく聞こえてはいけない。原作通りの問い掛けだったのだが、単になぞったのでは、むしろ出来栄えの差異が際立つだけだと思った。

 映画化作品の構成を見ると、本作ではオープニングの夏の場面に、息苦しいまでの蒸し暑さにうだるようなものが宿っていなければならないはずで、それが伴っていてこその濡れ場での開幕なのに、いかにもデジタル感の強いくっきり画面のくせして、びょっしょり汗を浮かせることさえしていないものだから、その息詰まるような暑苦しさは全く感じられなかった。同様に、これとコントラストが効いて来なければいけないはずのラストの渓谷にも、台詞で示されていたような涼風が吹いてはいなかった。きっと脚本では狙っていたはずのこの対照を映像で示すことができていなかった以上、映画化作品としては、やはり失敗作と言うべきだろう。

 夏美と俊介(大西信満)の彷徨シーンが、例えば『砂の器』['74]の彷徨にも迫るような情感を呼び起こせば、本作も映画史に残る名作になり得るようなドラマだっただけに、惜しまれる。当たり前と言えば、当たり前のことだが、映画化作品においては、何と言っても映像が大事だ。

 本作を観たのは、今回が初の上映会となる新設のシアタールームだった。階段状に並べた30余りの座椅子席でプロジェクター上映によって観賞できるスポットの空間的な雰囲気は非常に好もしかったのだが、そもそものディスクソフトのせいなのか、再生機のせいなのか、おそろしく安っぽい画面が現れて驚いた。近ごろはデジタル技術も進んでいて、とんとお目にかからなくなったような画像だったのだ。やたらとくっきり画面が強調され、陰影や距離感といった照明効果が全く窺えない平板な画面から、テレビ作品以下の安っぽさを印象付けられて唖然としたのだが、劇場公開版でも、こんな映像だったのだろうか。この画像の差異によって、確実に印象は変わってくるはずで、自分としては大いに気になっている。施設の側の問題なのか作品の問題なのか、ここでの他の上映会も観てみないと即断しにくいところだ。

 とはいえ、画像に対する不満を除いても、真木よう子には『悪人』['10]のときの深津絵里くらいに頑張ってもらいたかった。本作での濡れ場において、尻たぶすら見せない出し惜しみはいただけない。興醒めだった。立ち姿の小脇から覗かせた乳房の豊満さと量感にインパクトがあっただけに、残念の極みだ。それにしても、本作を観て、今が盛りの真木よう子の女優としての華のなさに改めて感じ入るとともに、それが故の蔭りの似合う持ち味というものに感心させられた気がする。未見の『ベロニカは死ぬことにした』もいつか観てみたいものだ。

 また、さよなら渓谷から夏美が落とした白いサンダルは赤だったような気がして、映画化作品では彼女の着ていた服の色と差し替えているように感じたので、原作を確認すると、ピンクのサンダルだった。赤い色は夏美の服でもなく、鉄橋の色だったのだが、それでも、やはり“白いサンダル”は違うのではないかという気がした。大して意味があるわけではないのだが、原作を先に読んでいて、予めイメージを持っていると感じる違和感というのは、そういうものなのかもしれないと興味深く思った。



参照テクスト:原作小説の読書感想
参照テクスト:ケイケイさんとの談義編集採録


推薦テクスト:「イノセントさんmixi」より
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推薦テクスト:「映画通信」より
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by ヤマ

'14. 2.15. 喫茶メフィストフェレス2Fシアタールーム



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