美術館冬の定期上映会“ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督特集”

(一日目)
『出稼ぎ野郎』 (Katzelmacher)['69]
『悪の神々』 (Gotter der Pest)['69]
『四季を売る男』 (Handler der vier Jahreszeiten)['71]
『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』 (Die bitteren Tranen der
          Petra von Kant)['72]
(二日目)
『マルタ』 (Martha)['73-74]
『不安と魂』 (Angst essen Seele auf)['73-74]
『エフィー・ブリースト』 (Fontane Effi Briest)['74]
『自由の代償』 (Faustrecht der Freiheit)['74-75]
(三日目)
『悪魔のやから』 (Satansbraten)['75-76]
『シナのルーレット』 (Chinesisches Roulette)['76]
『マリア・ブラウンの結婚』 (Die Ehe der Maria Braun)['78]
『ローラ』 (Lola)['81]

 2008年に東京でライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭が開催された折に、この20作品に『ベルリン・アレクサンダー広場』を加えて高知でも実施してほしいと県立美術館の職員に話したことがあった。六年越しで12作品による特集上映を行ってくれたので、頑張って全作品を観賞したが、寄る年波なのか、一日4作品を連日観るのは些か厳しくなってきていることを実感した。2週にまたがる3日間12作品のうち、僕が観ているのは『マリア・ブラウンの結婚』だけで、未見の『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』が漏れていたのは残念だったが、タイトルに覚えのある数々の作品を観ることができ、またニュージャーマンシネマの旗手として名高い作家の製作年次に沿った概観が果たせて、僕にとっては有意義な企画上映だった。


 初日の4作品を続けざまに観て、先ず感心したのは、女優がみんな活きが良くていいなぁということだった。作品的には、監督第2作との『出稼ぎ野郎』の印象が最も強く、半世紀近く前の映画ながら、いま日本で“ネトウヨ”などと呼ばれている連中のメンタリティというのは、まさしくこういうものなのだろうという気がして、実に興味深かった。ドイツのほうが高賃金だからと出稼ぎに来る外国人が就くような職には見向きもせずに、無職のまま口先ばかりの日々を自堕落に過ごし、その場しのぎの金稼ぎやたかりをしていて、DVまがいのいきがりや外国人に対する敵愾心を日頃溜め込んでいる不満の捌け口にしていた。本作でのイタリア人やギリシャ人を韓国人や中国人に置き換えてみると実に分かりやすい。そういう点では、本作の製作当時よりも今のほうが日本では理解されやすい作品かもしれないと思った。

 2本目の『悪の神々』のキャスト名には、マルガレーテ・フォン・トロッタの名があったのだが、かの『ローザ・ルクセンブルグ』['85]や『ハンナ・アーレント』['12]の脚本・監督を務めたマルガレーテ・フォン・トロッタと同一人物なのだろうか。そして、演じた役はやはり同名のマルガレーテだったのだろうか。けっこう魅力的だった。スーパー襲撃を敢行していたフランツの人物造形が今ひとつピンと来なかったけれど、それ以上にそれはないだろうと感じたのが、彼の元恋人ヨハンナにそそのかされて襲撃現場に乗り込みフランツを銃殺していた刑事だった。

 昼食休憩を挟んで観た『四季を売る男』も随分な話で、ハンスの妻はまだしも、ハンスとその親兄弟の人物像が何ともエキセントリックな感じがして、ピンと来なかった。ハンスの鬱化と死に至る選択は、いったい何を意味していたのだろう。

 最後に観た『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』は更に難儀な作品だった。ペトラ(マーギット・カーステンゼン)の部屋一室での長回しのカメラの元、延々と続くセリフ劇には少々うんざりさせられたが、元々が舞台劇だからこその趣向なのだろう。そういう点では、三谷幸喜の笑の大学が如何によくできていたかに思いが及んだ。こちらは、二人ではなくて幾人かの登場人物があるけれど、全員が女性だ。オープニングクレジットに、確か「マレーネを演じた者に捧ぐ」と出ていたように思うが、されば『四季を売る男』でハンスの妻を演じていたイルム・ヘルマンということになる。ほとんど台詞もないまま最後に出て行く、ある意味、最も強烈な役柄を果たしていたからだろうか。だが、果敢さで言えば、全裸のベッドシーンを演じていた『四季を売る男』でのハンスの妻の役のほうが勝っていたような気がする。後背座位で交わる浮気現場を幼い娘に目撃された際の表情がなかなか冴えていた。


 二日目の4本では、ファスビンダーらしからぬ戦前の貴族階層を描いた文藝小説の映画化作品である『エフィー・ブリースト』に際立った異色を感じたけれども、まるで向いていないことが痛切に感じられて妙に可笑しかった。モノローグともナレーションとも知れない平板なセリフ回しの退屈さは、小説文体を意識してのことだったのかもしれないが、全然ピンと来なかった。

 他方で、『マルタ』に描かれていたサディズム描写の冴えには、唸らされた。マルタ(マーギット・カーステンゼン)が晒されていた状況のサスペンスフルな怖さに加え、希望と絶望のなかでの揺らめきがスリリングで、印象深かった。肌の白さが際立つゲルマン女性の妻をイタリアで南欧の日差しのなかビキニで陽に焼かせ、胸と腰が真白く浮かぶ全裸の赤膚をベッドに乗せ、少し触れるだけで痛みにヒクつく妻にほくそ笑みながら、ごわっとした生地の背広の着衣のままで覆いかぶさり悲鳴を上げさせながら交わる場面が強烈だった。また、肉体的な苦痛以上に、精神的に苛む手管の悪辣さにも唖然とした。いやはや何とも恐れ入る。『自由の代償』に描かれていた、宝くじで大金を得た失業中の見世物小屋芸人マックス(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)を食い物にする金持ちたちの卑しさの悪辣ぶりも相当なもので、インテリや上流階層に対する作り手の敵意と憎悪が窺えるような気がした。

 ポーランドからの旧移民で孫もいる寡婦のエミ(ブリジット・ミラ)と彼女より20歳以上若いモロッコからの新移民の男アリ(エル・エディ・ベン・サラム)の恋と結婚を描いた『不安と魂』が二日目の白眉で、いま観てもその主題の斬新さに衰えのない秀作で大いに感心した。年齢も性別も人種もかけ離れた二人の間で交わされる孤独な魂のふれあいの描出が実にデリケートで、人物造形の確かさと相まって深い味わいを残してくれたように思う。二十代の時分に観た『マリア・ブラウンの結婚』でのマリア(ハンナ・シグラ)と黒人米兵ビル(ジョージ・バード)の間にあった厚情を偲ばせるものがあったような気がする。しかし、それが日常化していくほどに新鮮な喜びや感謝を保つことが難しくなるのは人の常で、劇中にも出てくる「不安は魂を食いつくす」との言葉の意味深長さがよく伝わってきた。


 三日目に観た4本も加え、お下劣趣味から底意地の悪さといったファスビンダー臭が匂い立つ作品群にあって、33年ぶりの再見となる『マリア・ブラウンの結婚』は、やはり抜きん出ていたような気がする。マリアの人物造形は、今この歳になって観て、尚ますます魅力的で且つ痛ましかった。自身の選んだ道に向かって発揮する自己実現力のタフネスぶりは、同時に自身に対しても強いストレスを与えていたからこそ、秘書をピリピリさせるような癇癪持ちにも彼女をしていったのだろう。事故とも自殺とも解せなくもない最後の爆発の前に彼女が見舞われていた頭痛は、どこから来ていたのだろう。あの最後を以て「ゴール!ゴール!」と連呼される人生というのも実に哀しく感じられた。

 午前中に観た『悪魔のやから』は、どうも皮肉な笑いのツボが自分と合わず、少々退屈した。チラシの紹介には「『ベルリン・アレクサンダー広場』と並び、彼の特徴が表れている喜劇」などと記されていたのだが、かねてより観たいと思っていた『ベルリン・アレクサンダー広場』が本作と並ぶようなテイストの作品なら、それを15時間観るのはツライと思った。

 昼食休憩の後の『シナのルーレット』は、二日目に観た『マルタ』の悪趣味と初日に観た『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』の息苦しさを足し合わせたような作品だった。不倫相手と週末を過ごすのに夫婦が揃って己が使用人のいる別荘を使う不用意さに唖然としたが、そこに難癖をつけては物語が始まらない。夫妻の娘アンゲラ(A・ショーバー)の抱えていた屈託の深刻さに胸が痛んだが、最後に鳴った二発目の銃声は、何を意味していたのだろう。妻アリアーネ(マーギット・カーステンゼン)が自殺を図ったのかもしれないと思った。夫ゲルハルト(アレクサンダー・アラーゾン)の愛人イレーネの役にアンナ・カリーナとクレジットされていたのが目を惹いた。

 三日に渡る特集上映の最後を飾った『ローラ』は、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使』を1950年代のドイツに置き換え、公私の利害が複雑に交錯した物語にしたうえでのローラ(バーバラ・ズコヴァ)と二人の男の三角関係を描いた作品とのことだが、恋に惑い落ちぶれ果てるラート教授を演じたエミール・ヤニングスが絶品でマレーネ・ディートリッヒの魔性が光っていた'30年の『嘆きの天使』のほうが断然よかったように思う。


参照テクスト:高知県立美術館公式ページ
by ヤマ

'14. 2.1. 8~9. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>