『いとしきエブリデイ』(Everyday)
監督 マイケル・ウィンターボトム


   ウィンターボトムの作品が高知で上映されるのは、十年前のイン・ディス・ワールド以来ではないかという気がする。『CODE46』『キラー・インサイド・ミー』も当地では公開されなくて観逃したなかで、久々のウィンターボトム作品を観ると、ひかりのまち』の日誌に綴った他の作品と同様、この世での生きにくさと人の生の寂しく虚ろな現実が切実に描かれていた。…しかし、重要なのは、誰をも荒んだ人間として描いていないことだ。貧しく退屈で冴えない生活と寂しく難儀な人の生をからくも支えているのが家族に象徴される身近な人との逃れようもない絆であって、とりわけ子供の誕生や存在は、まるで寄る辺なき虚ろな生に足掻く者をぎりぎりのところで支えるために生まれ出たかのようだ。というものが再び現出されたかのような作品だった。

 そのときの映画日誌で期せずしてラース・フォン・トリアー監督の作品に言及しているが、本作では『ひかりのまち』にはなかった絵画のように美しい風景静止画が折々に挿入され、ちょうどまたラース・フォン・トリアー監督作品を彷彿させる形になっていたのが目を惹いた。

 また、ウェルカム・トゥ・サラエボ』の日誌に記してあるドキュメンタリー映画とは異なる劇映画として撮ることへの明確な意識化をしつつ、いわゆる劇映画を越えた臨場感を表現することに腐心していたのであろう。ビデオ映像の多用や手持ちキャメラの動き、随所に挿入されるニュース映像など…。しかし、作り手がある種の世界を造形し、そこに何らかの真実の表出を試みようとする劇作家的意志が確実に観て取れる。といった核心が今なお全くぶれずに来ていることに感銘を受けた。

 本作自体の出来栄えは、過去の作品群と比べ、凌駕とか円熟といったものを改めて感じさせてくれるほどのものではなかったように思うが、大した作り手であることには疑いのない作品だったような気がする。

 イアン(ジョン・シム)が四人の幼子共々カレン(シャーリー・ヘンダーソン)を残して収監されていった犯罪に、カレンは全く関与していないであろうことの窺える人物造形が効いていた。おそらくは降って湧いたように生じたはずの夫の不在に対して彼女が最も強く感じていたのは、夫への思慕でも怒りでもなく、孤独感の痛烈さだったような気がする。夫の顔なじみのエディを頼り、子供たちとも親しませ、家に引き入れることの危うさは、他方で幼子を連れて足繁く夫との面会に出向いているなかで、危険水位に嵩が増してきている実感として、誰よりもカレン自身が最も苛まれていたに違いない。そのような自責を負っても、四人の幼子を抱えて女身一人で凌いでいくことには耐えられなかった彼女の寄る辺なさを責められるものではないと思うのだが、果たしてどう仕舞いを付けるのだろうと危ぶみながら観ていた。

 刑期を終え、出所した夫をカレン一人で迎えに行き、二人だけで向き合える状況を設えるよう段取って、先ずは双方が最も熱望する睦み合いを果たして満足を得た後に、悪い噂という形で耳に入る前に言っておかないといけないことがあると妻から伝えられた出来事に「浮気していたのか、それもエディと…」と憤慨しながらも、そのことを引き起こした責は妻以上に自分にあることが身に沁みて分かっているように窺えたイアンの人物造形に感銘を受け、彼に憤りと同時にその気付きを促し得ていたカレンの姿に打たれた。自身への弁明は一切なく、夫の不在ゆえと責めることも一切せずに、自分が心から本当に愛しているのは貴男なんだとひたすら訴えかけていた。

 イアンのしでかした犯罪と同様に、カレンが起こしてしまったことにしても、今さら説明のしようなどないのだから、これからどうしていきたいのかを真摯に語り合う以外に道はないわけだ。他の余計なことはせず、それしかしなかったことで訪れていた赦し合いに宿っていた納得感と稀有感に潜んでいる示唆は、個人同士の問題だけではなく、人間社会の問題に対しても通じるところのあるもののような気がした。個人レベルでも社会レベルでも、次世代を持っていることの意味は、きっとそこにあるのだろう。四人の子供たちが効いていた。そして、決して綺麗事としては描いていないところが作り手の面目躍如と言える点だと思う。流石だ。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/14073001/
推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
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by ヤマ

'14. 7.30. 美術館ホール



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