『GODZILLA ゴジラ』(Godzilla)
監督 ギャレス・エドワーズ


   ギャオスならぬギャレス監督のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』(Godzilla)は、相撲で言えば、投げも足技も使わない横綱相撲の寄り切りのような作品だった気がする。

 1か月ほど前に本家『ゴジラ』['54]を“60周年記念デジタルリマスター版”で久しぶりに観てきた際には、「やはり第1作は別格だな」と改めて思い、最後のほうは、かつて観たとき以上に、ある種の敬虔さや崇高さすら感じた。そのとき「このゴッドぶりは、さすがに7月公開作品にはないだろう」と思っていたのだが、今回の海外版の作り手は、かつて日本でのシリーズ化のなかで怪獣をアイドルに変貌させていった本家の作り手たちが見失った原点への回帰を見事に果たし、人間を圧倒的に超越した存在としての“神性”を体現したゴジラを造形していたように思う。人間の思惑などまるで眼中になく、活動を始めた目障りな存在のMUTOを倒すだけのシンプルな行動原理に大いに納得感があった。ゴジラは、こうでなくてはいけない。

 オリジナル作品に敬意を払った前世紀半ばの南太平洋での水爆実験の記録映像のような凝った造りの画面から始まった本作の物語部分については、僕自身、細部があまりよく分かっていないのだが、印象的にはなぜか、フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)がどこかしらウィラード大尉に重なってくる趣があって、地獄の黙示録を想起させる作品だったような気がしている。カーツ大佐は、もちろんゴジラだ。あれこれ能書きを喋らない分、より凄みのある圧倒的な存在だった。MUTOの口をこじ開けて、熱線(青いから熱線ではないかも)というか、放射線(そんなら色が付いてないか(笑))を吹き込んで倒すアクションだとか、悠然と泳ぐときの背びれの存在感だとかに圧倒され、目にも嬉しい快作だったように思う。

 それにしても、海外制作版でもやはり原発トラブルに係る情報は“特定秘密”なんだなと、妙に感心した。放射能禍によって隔離区域とされたはずの地が、いつの間にかすっかり除染されていた理由のほうには、大いに感心し、巧いと思ったのだが、それが人類のためでも何でもないところがいい。放射能を摂取する生物の存在によって除去されたりするものなのかとの疑問は拭えないが、そんなことはどうでもよく、現実問題での政府答弁や事業者説明ではないのだから、もっともらしく設えられていれば充分だ。現実のほうは、もっともらしさにおいては映画以下の出鱈目な放言ぶりだから、余計に映画作品での理由づけに感心したのかもしれない。ともあれ、核兵器では倒せないゴジラを葬ったオリジナル作品でのオキシジェン・デストロイヤーなるものにも“合点のいかない了解”をしたものだったことを想起させてくれるトンデモ科学っぽさが気に入った。こういういかがわしいもっともらしさこそが僕にとっては怪獣映画のツボなのだが、本作の作り手たちは、そのあたりがよく分かっている気がした。

 次作への展開も決まっているらしいハリウッド版怪獣映画には、原点を見失っていった本家の轍を踏まずにいてほしいものだ。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
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by ヤマ

'14. 7.29. TOHOシネマズ6



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