『上意討ち 拝領妻始末』['67]
監督 小林正樹


 会津藩随一の使い手ながらも馬廻り三百石の中級藩士だった笹原伊三郎(三船敏郎)が、息子の与五郎(加藤剛)以上に嫁の市(司葉子)に惚れ込んでいる感じが滲み出ていたのは、家付きの鬼嫁すがを演じた大塚道子の好演もあってのことだとは思うが、人物像としての“誇り高き不器用さ”が互いに響き合っているように思えて仕方なかった。二人とも、自らの欲するところを主張して求めるなどということは決してしないのだが、追い込まれるに従って己が意気地を貫く反骨が首をもたげ、一旦表明したことには決してブレを来さない凄みがあって、圧倒された。本作の展開には、ほとんど義父と嫁の心中に近い趣があって、実直さでは随一ながらも窮地における気概においては流石に二人には及ばず、最後に折れかけながらも引っ張られていた息子の与五郎は、恰もその巻き添えを喰らったような印象さえ残していたように思う。

 引くに引けない状況のなかで“引く勇気”を持つことも生半可なことではないことを知ればこそ、伊三郎は我が道を絶対のものだとは思っていないことを明言していたのだが、引く勇気を発揮するにはそれに相応しいタイミングというものがあり、それによって「引く」と「折れる」の違いが出てくるわけで、さればこそ、家督を長男の与五郎に譲り、自らは隠居をしたのだろう。だが、若い与五郎は、そこのところの重要さが分かっていないという塩梅だったように思う。土壇場で折れかけた与五郎を伊三郎が激して叱責したのは、そういうことであって、決して単なる翻意を責めていたのではない。難しくはあっても引き時と引き方は、おそらくはあったのだろう。

 だが、嫁の市が格別に誇り高く清廉な女性だったために、引くことは更に難しくなっていたとは思う。単に武門の意地と反骨の問題だけではなくなっていたからだ。加えて伊三郎にとっては自身の妻との違いが余りにも大きすぎて、その品格を慈しむ想いがさらに強く働いたであろうことは、息子夫婦に対して抱いた思いを与五郎に伝えた場面を待たずとも容易に偲ばれるような気がした。そして、市にとっても笹原父子の非凡さが同様の作用を及ぼし、伊三郎に通じる“誇り高き不器用さ”が研ぎ澄まされていったように思う。彼女もまた、篤実な笹原父子の手前、彼らが自分を尊重し愛してくれればくれるほど、それに応える決意をますます固めていったのだろう。

 おまけに藩の重臣たる側用人の外記(神山繁)や家老(三島雅夫)、親族の長老たる監物(佐々木孝丸)たちが引かそうとすることで、却って引くに引けない状況をもたらしていたわけで、伊三郎に対しても市に対しても、彼らの愚かしさを露呈させる形でその有様が繰り広げられる図を見ながら、これほどに際立たずとも、似たようなシチュエイションで人が誇りを傷つけられるのは日常的に起こっていることのような気もした。しかし、伊三郎や市のように命を賭して意地を貫くことまではできないのが凡人の凡人たる所以で、おかげで決定的な悲劇までには至らずに済むとも言えるわけで、全然格好よくはないけれども、それもまた凡人の生きる知恵と言えるのかもしれない。スパイダーマンではないけれども、非凡さには非凡さに見合った負荷というものが必ずあるとしたものだ。

 とりわけ彼らの愚かしさを露呈させていたのが、側用人の外記が笹原父子の待つ屋敷に乗り込んできたときのことで、賢しらぶった外記が家老を押し退けて買ってでた役回りに無策で臨むはずもなく、市を連れてきていたのだが、外記がそこまでしていなければ、トータルでの死者の数は随分と減っていたような気がする。僕は、外記がそこまで愚かにも火に油を注ぐとまでは思っていなかったので、屋敷の畳をすべて裏返して滑り止めにして戦の準備を整えている笹原の家の庭に乗り付けたときも籠かきの脚の運びに感心し、今の時代劇では見られないものだと思ったりしていただけだったから、外記が籠ではなく脇から出てきたときに少々驚いたのだった。だが、考えてみれば、映画的にはそのほうが効果的なのは間違いない。というか、そうしなければ、司葉子、畢生の名場面がなくなるから話にならなくなってしまう。

 それにしても、笹原家での監物たち親戚一同、義弟に嵌められての家老たちに続いて、三度も市が詰められ、いたぶられる場面を設ける作り手の嗜虐性は、なかなかのものだと思った。男たちがこぞって市に下駄を預ける形にして忖度を強いる図というのは、全くもって下品な振る舞いだと改めて思った。もっとも市にしても、最初の大奥上がりに際しては、許嫁の男に下駄を預けたことで逃れようがなくなったのだから、その因果だと言えなくもないのだが、衆人環視のなか三度も詰められるのでは、いたぶられ方の度合いが違う。

 惜しむらくは、国廻り支配の帯刀(仲代達矢)の人物造形が少々中途半端に感じられたことだ。藩の重臣相手に説く“筋目”がなかなか痛快で、伊三郎(三船敏郎)との気脈の通じた五分の遣り取りがなかなか面白かった一方で、生後まもない孫娘トミのために勝ちを譲れなどと最後に言わせたのは、作り手の筆が滑ったようにも感じられた。伊三郎が赤子に向かって、自分が死んだときには帯刀が引き取り養ってくれるはずだなどと一方的に言い放っているのを聞いて、いかにも嫌そうな顔を見せたのは、なかなか良かったのだが、それだけでは、養育を負わせるなら勝ちを譲れとの軽口的な応酬ニュアンスを宿らせるには至っておらず、帯刀の人物像を与五郎的に貶める方向に働いていたような気がする。剣のうえでの勝敗はついても、帯刀には最後まで伊三郎と五分に渡り合う人物であってほしかったように思う。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-a5a4.html
by ヤマ

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