『終の信託』
監督 周防正行


 高校時分の新聞部の友人が検事をやっていたし、同窓生の幾人もが医者をしているどころか、実の弟が大学病院の内科教授だから、検事にしても医者にしても功罪ともども、実に難儀な仕事だと常々思っている。僕自身、学校時分に幾人かの先生から、そのどちらの道についても、それを目指すことを求められたことがありながら、その職業は責任が重すぎて嫌だと拒んだのだが、そのことが間違っていなかったという思いを新たにさせられたような気がした。

 世間一般でも、いい人が有能な人だとは限らないのだが、こういう世界では殊更に、江木秦三(役所広司)の言うような“いい医者”が有能とは言えず、人間的に“いい検事”が有能な仕事を果たせるようには思えない。そういう意味で、折井綾乃医師(草刈民代)の人物像を決して美化せず、思い込みや感情移入に左右されやすい危うさと感受性の豊かさを描き出し、患者が意識を失った状態での措置の有り様に対して綾乃が考え方を改めるようになる経過に、自身が死にかけた過失体験と喪失感のなかから生きる力を取り戻す過程をきちんと配して綴っていた点や、塚原透検事(大沢たかお)を過度に悪辣な人物造形にしていなかった点は、さすがの周防作品だと思った。

 塚原検事の尋問手法はともかく、彼の主張はもっともで、細部は別にして大筋の事実認定は間違っていなかったように思うし、被疑者に対して証拠搜索ではなく尋問によって追い込むためには、あのような手管を要するのは職務的に不可避なのかもしれないと思わせるところが秀逸だった。だが、たまたま彼の筋読みに大きな誤りがなかっただけで、強い思い込みに近い動機づけが得られなければ、あのような尋問はできそうにないことを思うと、思い込みに支えられて江木を死に導いてやった折井医師と塚原検事との間にいかほどの差もなかったように思う。そういう意味では、折井医師の過ちは明日の塚原検事が犯しかねない過ちなのだ。

 綾乃の逮捕に漕ぎ着けた後、一人になった塚原検事が大きな溜息を吐き出して深く椅子に沈み込む姿を映し出していたが、あの溜息が、首尾よく逮捕に至った安堵の溜息のようには必ずしも思えず、しんどい時間から解放された安堵感のほうが強いように感じられたのが、とても利いていたように思う。あのような時間を繰り返さなければならない職業は、人の死への立会を繰り返さなければならない職業と同様に、少々高額の俸給を得ようとも御免被りたいと思わずにいられない。慣れてしまうことに対しては人としての畏れが抜き難いし、慣れられなければ毎日が苦しいし、いずれにしても代償があまりに大きすぎると、自分本位な僕などは思ってしまう。

 だから、映画で示されていた事実描写を観る限りにおいて、最後にクレジットで映し出された公判過程による判決を僕は妥当なものだと支持せざるを得ないと思うと同時に、折井医師が提起していた問題そのものには大いに共感を覚えた。すなわち、本件においては妥当な量刑だと思いつつも、判例要件となっている“不可避な死期の切迫”と“耐え難い肉体的苦痛”における切迫や耐え難い苦痛の判断基準は何かということだ。いずれも患者当人における極めて主観的なものであるはずなのだ。それにもかかわらず、患者不在の客観性のほうに議論は向かうのだろうが、誰がそれを判断できるというのだろうか。

 また、患者当人以外の客観的判断が本人の意思よりも優先されなければならない理由は何かということだ。もちろん理由のつけようは様々にあるわけだが、本人の意思が尊重されないことに変わりはなく、そこには個人の尊厳という基本的人権に関わる大問題が横たわっている。彼女が言っていたように、少なくとも、複数の医師による合議判断ということにすると、患者サイドに立つよりも責任回避のための延命措置の維持に傾くような気がする。また、病院経営の面からしても、それが選ばれそうであることに間違いはないように思う。

 患者に限らず、人の本心を推し量ることも、重大な結果に関与した人を裁くのも、本当に難しい。人の命を託されるのは、本当に難儀だ。そのあたりのデリカシーを損なわない人物造形を果たしているように思えた脚本と演技に、大いに感心させられた。プッチーニの“私のお父さん”にまつわる江木の語ったエピソードは、原作にもあったのだろうか。実に利いていて感心させられた。人の感受力や思い込みと現実の乖離には、本当に大きなものがあって、確かに悲劇と喜劇くらいの違いがある。尚且つ、視点次第ではそのどちらもがあながち間違っていることにはならない多面性というものを備えているのが、現実にほかならない。悪役を担った検事は必ずしも悪役ではないのかもしれず、また医師を過剰医療に追い込んだ張本人はと問い返せば、家族にも明かさずに折井医師に“終の信託”を負わせた患者に他ならない。いったい誰がこの物語における“私のお父さん”だったのだろうなどとも思った。

 そして、人によっては、四十路とは思えないであろう綾乃の純情や五十路とは思えないであろう泰三のロマンティシズムに対して、むしろリアリティを感じることができたのは、僕自身のなかにも多分に青臭い部分が色濃く残っているせいだろうと思うのだが、本作が僕に響いてきた最大要因は、そこのところだったような気がしている。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/12110401/
by ヤマ

'12.11. 1. TOHOシネマズ6



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