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『苦役列車』 | |||||
監督 山下敦弘 | |||||
ヤマのMixi日記 2012年07月27日22:35 先ごろ観た『ヤング≒アダルト』のメイビス・ゲイリーか、本作の北町貫多(森山未來)か、と言うくらい、何ともイタ〜いキャラクターだった。 負っているものは、メイビスの才色兼備と貫多の父親の性犯罪による一家離散の中卒学歴じゃ随分と違うように見えるけれども、自身の選択によるものではない形で負わされ、負っているものという点では同じだ。 いきなり「素人ヌード 糸を引く蜜」なる看板の場末の覗き部屋が現われて、一体いつの話だ?と思ったら、早生れの正二(高良健吾)が昭和43年生まれとくれば、ちょうど僕の十年後輩じゃないか。さすれば、昭和末期の61年ってことになる。僕自身は行ったことがないけれど、一時期ブームだったものの、すぐに消えたような気がしていたので、その頃もまだ残っていたのかと思ったが、主人公の名前からして原作者が自身を投影していることの如実に窺える西村健太の小説からしてそうなっているのだろうから、残っていたに違いない。 それにしても、ぼろアパートといい、古本屋といい、今はめっぽう少なくなっているはずのそれらしき場所をよく探し出してきたものだ。三十年余前の学生時分に行ってた覚えのある「鮒忠」の見覚えのある黄色い電気看板が妙に懐かしかった。 西村健太氏にとっての正二も康子(前田敦子)も、たぶん実在しているのだろうが、高橋のおっさん(マキタスポーツ)をTVで目にするエピソードも本当にあったことなのだろうか。三十五年前に江古田の駅前で終電に乗り遅れた僕に声を掛けてくれたタコ焼き屋台の兄さんのことをふと思い出した。 それにしても西村氏は、あの最低の青春をよくぞ抜け出したものだ。文学の力は、まだまだ侮れないのかもしれない。西村健太の小説を読みたいという気にはならなくて、作中に出てきた土屋隆夫の『泥の文学碑』を読んでみたいと思ったのは何故だろう(笑)。 コメント 2012年07月27日 22:59 (北京波さん) ボクは『苦役列車』は掛値なしの力作だと思うんです。誰もが覚えがある世界ですが、切捨ててきた世界。痛い映画こそいま必要で、娯楽映画も癒しも痛みを共有していた恥ずかしい記憶の切実さの前には消し飛んでしまう。『わが母の記』もその切実さの点で地球の裏側の映画みたいな気分になってしまう。山下敦弘は『マイ・バック・ページ』でもそうでしたが、解る人間には堪えられない作家になりましたね。 2012年07月27日 23:37 ヤマ(管理人) ◎ようこそ、北京波さん。 山下監督もさることながら、森山未來、どんぴしゃでしたねー。 あの鬱屈、そして純情と世間擦れが渾然となった葛藤、貫多になりきってましたね。 メイビスは女性なんで、少し余裕をもって観られるのですが、貫多はかつて通った道ですから、正視しにくいとこがありましたよ(苦笑)。 2012年07月28日 00:12 (なんきんさん) 前田敦子の役は原作にありません。 またマキタスポーツのTVも原作にありません。 “最低の青春”に見えてしまうのなら、この映画は失敗してると思います。西村氏は最低だと微塵も思っていません。また文学に救われるハナシでもないのですよ原作は。すべてを肯定してるのです。原作者が映画に対して批判的なのが、ヤマさんの批評でよくわかりました。 原作を一読されることをオススメします。 2012年07月28日 08:36 ヤマ(管理人) ◎ようこそ、なんきんさん。 康子も高橋も原作にない、いまおか脚本での造形なら、本作は原作とは全くの別物ですね。たぶん。 なんきんさんが日記に書いておいでの“最低である主人公が自分が最低であると自覚して最低であることを露悪的にさらけ出そうとテメエと向き合う”青春は、決して最低の青春ではなく、そうして得られた開き直りからこそ全てが始まるのだという物語なら、対置すべきは、一見おなじバイト暮らしのように見えて、実は恵まれた健やかで善良な正二のみで充分ですね。正二を含め、康子や高橋のおっさんとの出会いによってスタートを切ることができたというように描かれてしまっては、原作者としては納得がいかないというか、それこそ作中の貫多の台詞じゃないですが、「中卒だと思って、てめえ、ボクを馬鹿にしてるんだろ」って言いたくなるでしょうね。 全然食指の動かない原作でしたが、俄に興味が湧いてきました。“最低である主人公が自分が最低であると自覚して最低であることを露悪的にさらけ出そうとテメエと向き合う”ことに付き合うのは、自分もかつて文芸サークルにいて、正二の言う“メンドクサさ”を抱えていたので、少々堪えそうですが(苦笑)。 ともあれ、原作未読者の拙文になんきんさんを触発できるものがあったようで、なんだか嬉しくなりました(礼)。いずれ読んでみようと思います、『泥の文学碑』のほうではなく、原作を。 2012年08月09日 8:37 (北京波さん) いま自分でも少し『苦役列車』についてまとめはじめています。2回目を観て、はっきりと感じたこともあり、できましたら、別メッセージでもお送りします。 2012年08月09日 12:28 ヤマ(管理人) ご連絡、ありがとうございます。 お知らせいただけると非常に助かります。よろしくお願いします。 2012年08月09日 12:59 (北京波さん) できました。 『苦役列車』の北町貫多がなぜ惹きつけるのか?(100%ネタバレです) ほかの映画の殆どがそうであるように、ボクの感想はあくまでも映画のみを観てのことに終始する。すべての映画において原作のあるものは必ず原作を読み映画と比較したり分析したりすることがないなら、それは非常に平等性を欠くと思うからそうしている。 (従って西村賢太の原作は未読である。まだハード・カヴァーしかないようなので文庫本になったら是非読んでみたい、と考えている。) 映画の中で、マキタスポーツ扮する高橋が貫多にこう言う。 「北町、おめぇはまだ何でもできると思ってんだろ。でもな、何にも出来ねえんだよ。毎日働いて働いて生きてくだけで、何にも出来ゃしねえんだ、この中卒!」 酒の力を借りて口に出したように見えるが、これは同じ中卒で中年になってしまった高橋の常に鬱屈した精神のなかで発酵した怨念である。だからこそ、貫多の胸にグサリと刺さったのである。 父親が性犯罪者になって捕まり、一家離散した貫多。彼には迷惑をかけられる人間にはかける。甘えられる人間には甘える。そういう姿勢ができている。 人間はやはりよほどの例外を除いて穏やかで平和な生活や人間関係を夢に見るものである。ただ、そういったものが生まれてからずっと既に身の回りに獲得している人間には、その獲得したという実感も認識もないまま、夢に見ることもない。 だが貫多は偶然に仲良くなったにしろ日下部正二と桜井康子という友を得るのだが、その穏やかで平和な関係を自らぶっ潰すように破綻させる。 貫多の姿を見ていてオーバーラップしたのは車寅次郎であった。48本も作られた『男はつらいよ』だが、その少なくない作品で、彼は結婚したり、あるいは望むなら家族にもなれそうなときにも身を引いていく。 そこには理解し難い理由があるに違いない。ボクは常々そこにコンプレックスを思った。柴又に帰る家があったにしろ、堅気の人間では予想もできないような生活を送り、また如何わしいことも経験してきたのだろう。寅さんのあの魅力的なユーモアも、その屈折を超えて滲みでているもので、彼はおそらく堅気の幸福な生活を一生放棄することで寅さん足りえたのではないか。 貫多も、世の中の公序良俗、良識、善意に満ちた生き方をしている人間に迷惑をかけ甘えて軽蔑されることでのアイデンティティーの保全を図る。彼が中学生以来保ってきたものの根底に流れるのは、絶対に覆りはしない「負」に飲み込まれぬようにするための安寧の放棄であったのだろう。 その反撥もまた「痛いところをえぐるような指摘」のかたちをとる。正二が当たり前に得ようとした小市民的満足の対象である女子大生への「世田谷」「杉並」の指摘はその最たるもので、この映画の非常に鋭いところは我々がずっと疑いもせずにやってきた駆け引きの俗性欺瞞性を正面に見据えたことである。 高橋の姿をテレビで見てからの貫多の行動は非常に理解できる。彼は、ここに自分が見下していた人間のしぶとく生きている姿に衝撃を受け、徹底的に自分を打擲させて、突き動かしてくるものに身を委ねる。 このとき、彼の脳裏に正二と康子の姿が浮かぶところは白眉であった。甘美な記憶として、自分のどうしようもない卑俗さに心から打擲したのである。 ひとりの人間の動き始めるところを描いた『苦役列車』は、ボクにとってやはり魅力的な作品であるのだった。 長くて済みません。 2012年08月09日 20:24 ヤマ(管理人) ◎ようこそ、北京波さん。 早速にどうもありがとうございました。とても読み応えがあり、すごく納得感がありました(礼)。 僕も、かねてより原作と映画化作品は別物という考え方に立っており、そりゃ読めば比較対照もしますが、少なくとも原作をどこまで忠実に映画化し得たかということには関心がなく、映画の作り手が原作のどこを取り出し、何に触発され、どう換骨奪胎しているかのほうが興味深く、本作と同じく森山未來の出演した『世界の中心で、愛をさけぶ』でも、そこのところが面白かった覚えがあります。敢えて映画化するというのは、そういうことですよね。 その点で、本作の原作には康子も高橋のおっさんも出てこないと聞いて、俄に原作への興味を掻き立てられたのでした。それくらい映画化作品での高橋のおっさんは、抜群に効いていたわけですが、その核心部分を綴っていただき、どうもありがとうございました。 『男はつらいよ』には意表を突かれましたが、「堅気の幸福な生活を一生放棄することで寅さん足りえた」との援用は、貫多の“迷惑をかけ甘えて軽蔑されることでのアイデンティティの保全”とのご指摘を了解するうえで非常に分かりやすいものでした。流石ですね。 僕にも“獲得したという実感も認識もないまま、夢に見ることもない”ものがたくさんあります。それと同時に、貫多のイタさのなかに自分が抱えていたものと同じようなものも見出し、近くて遠い、遠くて近い、まことに微妙な距離感を覚えながら観ていたような気がします。 参照テクスト:『苦役列車』原作小説読書感想文 推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/12072903/ 推薦テクスト:「Healing & Holistic 映画生活」より http://uerei.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-478b.html 推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より http://www.j-kinema.com/rs201207.htm#kueki 推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1859384544&owner_id=4991935 | |||||
編集採録 by ヤマ '12. 7.27. TOHOシネマズ2 | |||||
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