| |||||
『大魔神』['66] | |||||
監督 安田公義 | |||||
スクリーンで観るのは、おそらく四十五年前の小学生のとき以来ではなかろうか。特撮もののキャラクターのなかでも、僕の贔屓はガメラと大魔神だったのだが、今回、江ノ口コミュニティセンターによる地元の映画館を利用した“江ノ口市民図書館”利用促進事業の一環として、わずか100円でスクリーン鑑賞できるということで、いそいそと出向いた。 今になって観直すと、ドラマ部分はシンプルな割にいささか緩慢で、やはり大魔神が変身してからの最後の15分間のための映画だったような気が改めてした。だが、この年になって観ても、大魔神そのものは素晴らしく、緑色の仁王のような風貌とぎょろりと光る目玉が圧巻で、半世紀近く前の作品とは思えない画面の色合いの良さが嬉しかった。 巫女の信夫(月宮於登女)が「神様はすべてを見ている」などと言っていた話だけあって、オープニングから空中に浮かぶ眼で始まる映画だったことは、すっかり忘れていた。しかし、すべてを見ているなどと言っても、大館左馬之助(五味龍太郎)が謀反で領主になって十年も放置しているのだし、築城に係る労役を民に課して苦しめているからということで怒ったわけでもない。所詮は、己が額に鉄槌を打ち込まれるなどという暴挙を喰らったせいか、乙女の涙にほだされたせいか、いずれにしてもひどくパーソナルな動機で動き出したとしか思えない話だった。 また、その小笹姫(高田美和)の頼みにしたところで、兄の花房忠文(青山良彦)と忠臣の小源太(藤巻潤)の命乞いであって社会正義などとは無縁のパーソナルさだ。竹坊(出口静宏)の父ほどの義侠もなく、ひたすら情のみだったという意味では、あの政治の季節とも言うべき60年代の作品としては、むしろ異彩を放っていたことになると気づいた。 それにしても、滝への身投げにしろ、竹坊への覆い被さりにしろ、乙女が身を捧げる価値の絶対性のようなものが繰り返し出てきて、何だか可笑しかった。大魔神への有効打というのは、それしかないとでもいうことだろうか。そのへんには作り手の趣味が表れてきていたのかもしれない。 大魔神の圧巻ぶりのほうは想定の範囲なので、久しぶりに再見して最も感心したのは、悪役の素晴らしさだった。左馬之助にしても軍十郎(遠藤辰雄)にしても、本当に悪辣な奴らで大魔神の鉄槌を受けるのが当然の悪党だったという覚えがあったのだが、今回、再見してみると、物語のうえで与えられた役割としての悪党ではあっても、それ以上に殊更の悪辣さを示す悪行を重ねていたわけではなかったことに驚いた。三池版『十三人の刺客』の明石藩主の斉韶(稲垣吾郎)などの悪行には及びもつかない。粗暴ではあっても奸計を巡らせたりはしていない。ただ単純に憎々しげなだけだ。だから、僕の記憶のなかにあった実に悪辣な印象というのは、偏に悪役を演じた役者の力量、ことに顔面力にあったことを改めて知った。それを思うと、今はもうこういう悪役を演じられる役者がいなくなっているような気がする。 そして、竹坊が魔人像に願い事をするために森に分け行っていくときに感じていた恐怖を描いた幻覚場面での、腕の白骨と重ね合わせた小枝のシンクロぶりがなかなかよく、猿やら虎と思しき獣の顔をカット挿入していた少々乱暴とも言える処理が、いかにも竹坊の心中を表しているようで効いていたように思う。 ふと二十四年前に観た『大魔神復活』['88](甲藤雅彦監督)のことを思い出し、探してみたら、僕も持っている当時のチラシの名古屋版がネット上にあった。自分の住む高知の街の菜園場商店街のミニチュアセットが、かなり精巧に作られた大魔神によって粉砕される8mm自主製作映画で、高知新聞会館にて観たものだ。版権問題があって正式上映が難しいようだが、こちらのほうも再見してみたい気持ちに駆られた。そして、いつになく子供から高齢者まで幅広い年齢層で賑わっている館内を見ながら、“街に残った唯一の単館一般映画劇場を活用したコミュニティ事業”として、夏の年中行事にしてもらいたいものだと思った。 推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より http://www.j-kinema.com/rs200502.html#daimajin1 | |||||
by ヤマ '12. 8. 3. あたご劇場 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|