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平成24年度文化庁優秀映画鑑賞事業 市民映画会特別上映会 ~時代を駆け抜けたアイドルたち~
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僕が16歳から30歳までの間の作品なのだが、十代、二十代の頃は、その若気ゆえにアイドル映画など歯牙にも掛けていなかったから、このスーパーアイドル四人の各スクリーンデビュー作とも、今回が初めてのスクリーン鑑賞となった。四人が四人とも所謂“美貌”というような顔立ちでないことと、僕の記憶に残っているイメージ以上に、表情の若々しい煌きが画面から放たれていることに改めて感心した。 山口百恵15歳、松田聖子19歳、原田知世15歳、宮沢りえ15歳。こうして並べてみると、ラインナップとしては『野菊の墓』を外して、やはり『野性の証明』(薬師丸ひろ子14歳)にすべきところだったような気がするが、『伊豆の踊子』と『野菊の墓』を並べたことで、いかに松田聖子がポスト百恵の路線で売り出されていたのかということが、明白に示されているような気がした。 伊藤左千夫の小説『野菊の墓』が映画化作品ではずっと『野菊の如き君なりき』というタイトルだったのに、ここでは原作どおり『野菊の墓』になっていたのは、やはり山口百恵が『野菊の墓』というタイトルのTVドラマで民子を演じ、同名の楽曲も歌っていたからなのだろう。映画としては、最後に松田聖子が歌っている主題歌の、本編中でのインストゥルメンタルの使い方があまりにも夥しくて、興醒めが甚だしかったように思う。また、前髪を上げた質素な着物姿が『伊豆の踊子』の山口百恵のようには似合ってなくて、さっぱりだった。 その山口百恵の『伊豆の踊子』では、彼女の表情の愛らしさに流石のものがあって圧倒された。ボディダブルに違いないとは判っていても、かほる(山口百恵)が川島(三浦友和)の姿を見つけて、嬉しさのあまり思わず露天風呂から全裸で飛び出して手を振り跳ねる様子が遠景で出てきたときには驚いた。村の通り抜けさえも禁じられるほどの強い差別に晒されている旅芸人稼業にあって、当然のことのように水揚げ代の交渉を義母(一の宮あつ子)に持ちかけられたり、御座敷で酔客に絡まれたりしているのだ。にもかかわらず、五目並べにはしゃぎ、物語の読み聞かせに目を輝かせる屈託のなさを留めている奇跡の魂を、山口百恵が実に説得力豊かに演じていて、大いに感心させられた。兄嫁の千代子(佐藤友美)が漂わせていた翳りのある艶っぽさとの対照が、よく効いていたように思う。 そして、思いがけずインパクトがあったのは、若くキリッとした三浦友和と中山仁だった。二人の相対する距離感の爽やかさが格別で、本作の清潔感を引き立てていたような気がする。露天風呂から飛び出して手を振り跳ねて喜んだ踊子と対をなすように、かおるが手を振り見送る姿を見つけ、船上から学帽を握って思い切り手を振る川島の姿で終えた本作は、やはり今回の四作のなかでも一頭地抜きん出ていたように思う。 原田知世の『時をかける少女』については、五年余前に『劇場版アニメーション 時をかける少女』(監督 細田守)を観たときのmixi日記に「二十五年前の原田知世の実写版を僕は劇場では観ていないせいか、あまりよく覚えていないのだが、このアニメーション作品が清新ないい映画であることは判るものの、今ひとつ乗り切れなかった。それは、千昭や功介のキャラのせいだったかもしれない。昭和四十年の原作小説に材を取りながら、今時はやりの“昭和レトロ”には向かわず、2005年に行われた“ベルリンの至宝展”のポスターやケータイが普通に出てくる現代に置き換えているのは好感が持てるものの、それだと男二人のキャラが何十年も前の少女漫画のイカス男子生徒そのままで、どうにも今の香りがしてこない。 まぁ、少女漫画的キャラは、普遍のものなのかもしれないけれど、甘酸っぱさを味わいつつも、ひどくバーチャルな感覚に見舞われていた。」と記していたのだが、今回初めてスクリーンで観て、劇場版アニメーションの監督・脚本(奥寺佐渡子)コンビによる最新作『おおかみこどもの雨と雪』の草平のキャラクターの元は、本作の堀川吾郎(尾美としのり)にあるのではないかと思った。雪に振り回されながらも終始一貫してぶれのない態度で接し続けていた草平の姿は、雛壇の傍で割ってしまった姿見の破片で怪我した指のことを芳山和子(原田知世)に取り違えられていようと、幼時のまま変わらぬ態度で接し続けていた吾郎の備えていたものに通じるところがあるような気がした。 宮沢りえの『ぼくらの七日間戦争』は、中学一年生という設定にしては、あまりに発育の良さが目立つ気がしてならなかった彼女以上に、オープニングシーンで始業ベルの音に合わせて校門の重たい鉄柵を勢いよく押し閉じる教師の姿を映し出していた“時代性”が印象深い作品だったような気がする。当時、この暴虐行為による女子高生の圧死事件が起こって大きな社会問題になったことを思い出した。 近頃、ゆとり教育の反動からか嘗ての詰め込み教育への揺り戻しの動きがあるように感じているのだが、それとともに教育委員会制度の解体を叫ぶ声が強くなってきているようにも思う。確かに現状の教育委員会のあり方には大いに疑問があるが、それに関しては、批判に晒された“ゆとり教育”の問題が、その理念がきちんと保護者や現場で理解されずに誤った運用がされたから生じたように思われるのと同様に、教育委員会制度自体がいけないのではなく、その運用を誤っているような気がしている。ちょうど嘗て校則の嵐による管理教育が学校現場で子供たちを荒廃させたように、教育委員会というよりも、教育委員会の名のもとに教育委員会事務局が人事権を盾にして文科省の指導要領に沿って現場を過剰に管理する体制が、学校現場をダメにしているような気がしてならない。その校則の嵐による管理教育が現場を席巻していた時代の学校を描いたのが本作で、そういう観点から非常に興味深かった。 僕自身は、英語の西脇先生(賀来千香子)ほどの鷹揚さを是とするには至らないが、生徒が力を合わせて異議申し立てをすること自体は支持するし、かつて自分の通った道でもあって痛快だった。そして、最後には戦車までもが登場するだけでなく、わずか1基の砲塔であれだけの花火が上がる訳もない壮麗な非現実感が、却ってファンタジーとしての納得感をもたらしてくれているように思った。 | ||||||||||
by ヤマ '12. 8.10. 高知市文化プラザかるぽーと大ホール | ||||||||||
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