『春との旅』
監督 小林政広

 長兄の務めを果たさず養子に出た兄(大滝秀治)には悪態をつき、姉(淡島千景)からは幾つになっても身勝手な厄介者呼ばわりされつつしおらしく従い、ヤクザな道に踏み外した弟からは、忠兄ぃだけには年賀を欠かさぬよう内妻(田中裕子)に言付けられ、末弟(柄本明)とは、いい歳をして「バカヤロー」と罵り合いながら取っ組み合い、娘婿(香川照之)からは離婚に際しても義父との別れを惜しまれる舅であったことが娘婿の再婚相手(戸田菜穂)に伝わっているという老いた忠男を演じた仲代達矢が、この毀誉褒貶著しい人物像のいずれもに納得感のある含みを体現していて、大いに感心した。

 彼の演技の仰々しさは、芝居掛かったキャラでないとそぐわないことが多い気がするのだが、本作での人物造形は絶妙だったように思う。おかげで、親子兄弟や夫婦といった濃い関係のほうが屈託多くて難しく、姪御やら義理の関係あるいは気の合う他人同士といった距離があるほうが、むしろ良好な関係を持ちやすい面が強かったりする人間関係の綾と難しさをなかなか味わい深く現出させた作品になっていたような気がする。

 孫娘の春(徳永えり)も祖父に同行する道中で自分の知らない祖父像を親戚たちから垣間見せてもらったり、祖父がぶつかり合う姿を見ることで、自身が避けてきた父親との対面を試みてみる気になったのだろう。昔堅気の家業観のなかで長男の務めから逃げた兄に代わって稼業のニシン漁を守ってきた忠男が兄を赦せないでいることや、若かりし頃の身勝手な振る舞いを今なお姉から咎められていたりすることに対して、近くて濃い関係であるがゆえに感情面のみならず是非をも含めて囚われや拘りを払拭しにくくなることで招いている不幸というものを嗅ぎ取ったような気がする。

 父親との再会に先だって再婚相手が母親そっくりであることを知って受けた衝撃は、それほど好きだったのなら何故に母親の過ちを赦せずにDVに走り、妻に「もう絶対に許されることはないのだ」との絶望を与えて自殺に追いやり、娘の自分を傷つけ過酷な生活を強いてしまったのかとの憤りで、他のいかなる場面にもない感情の高ぶりを露わにした春が印象深かった。ガニ股の子供歩きのような立ち居振る舞いが目につく春は、19歳との設定だったが、あの歩き方の印象からして恐らくは男性経験もなく、恋愛関係を結んだこともないような気がする。近親であったり、好きであるからこそ赦せない度合いが募るような感情は、物ごころついてから後の人生の大半を親兄弟もなく祖父との二人暮らしでしか過ごしていない春には理解が及んでいなかったのだろう。だが、長らく拒絶していた父親に会い、自身の感情をぶつけることができるに至って、もしかしたら、春は父親が赦せるようになったのかもしれない。少なくとも、そもそも祖父に自分ではなく兄弟を頼って生きるよう迫ったことを早々と後悔し始めていたときの覚悟とまでは呼べないものと、親戚めぐりの果てに祖父と暮らしていくことを選び取ったときの意志とには、大きな開きがあり、両親や祖父に対して抱いていたであろう自身の“赦せない思い”からの脱却があることの窺える作品だった。

 忠男の迎えた最期(だと思う)のタイミングは、観る人によっては、いささか御都合主義に映ったかもしれない。けれども僕は、春に対しての御都合主義的なものよりも、忠男にとっての至福のタイミングのように受け止めたので、作り手の忠男への優しさだと感じた。電車のなかに射し込んでいた陽の明るさや温かさ、また、その直前が自分と暮らしていくことを選び直してくれた孫娘の肩に頭を凭せ掛けた居眠りで、娘婿の後妻からは、身寄りのない自分には父親のように感じられ一緒に暮らしたいというこの上もない言葉を掛けてもらったばかりだったからだろう。忠男が生きたとしてその後の十年、その前の十年のいずれのなかでもピークだった気がしてならなかった。

 小林監督作品は高知初上映で、僕自身『バッシング』『愛の予感』も気にはなりながら未見なのだが、監督・脚本を兼ねた作品の作家的主題は“赦し”にあるのではないかという気がした。本作が思いのほか良くて、もうけものだったので、他の作品も観る機会を得たいものだと改めて思っている。



推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1496199647&owner_id=425206
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/11051401/182/
by ヤマ

'10.12.17. 民権ホール



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