『人間蒸発』['67]
監督 今村昌平

 十年近く前に、高知県立美術館が (財)国際文化交流推進協会(エース・ジャパン)と共同主催で企画した~レクチャー&上映3回シリーズ~は、同館のこれまでの企画のなかでも屈指のものだったが、本作は、第1回:ドキュメンタリーとアバンギャルド、第2回:自分探し、第3回:映画/リアル/現実そして自由と題されたシリーズのいずれにも直結するような作品で、あの連続企画のなかでは是非ともラインナップに据えておくべきだと思える映画だった。

 今村監督の「はいっ、セットを飛ばして~!」という声が入ってからが圧巻で、引き上げられた部屋の壁こそがまさに“虚実の壁”のようだった。何を以ってドキュメンタリーと言い、何を以ってフィクションと呼ぶのかについては、意外と共通理解が整えられていなくて各人が勝手なイメージを抱いているから、本来リテラシーのほうに属することなのに、作品のみに対して「ヤラセ問題」などという愚にもつかないレベルでの非難が寄せられたりする。本作についてもまた、映画のあり方としての是非論がさぞかし巻き起こったのだろうが、そういう意味では実に刺激的な作品で、十年前に観た『コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス』(ピーター・ジャクソン監督)のことを思い出したりもした。

 監督自身が映画のなかで「これはフィクションなんだ」と繰り返すのが痛烈で、インタビュー形式のドキュメンタリー作品における大原則とも言うべき“作り手自身の問題意識の表出”を担うインタビュアーに名の知れた俳優(露口茂)を充ててあることからして、挑発的だ。

 脚本に書かれた台詞を発し演じる俳優がインタビュアーであり、監督自らフィクションと言っているから、描かれたものが虚構になるのだったら、カメラの捉えているものは何であって、どういう意味を持つことになるのかを考えると、“虚実の壁”というのは、そんな単純なものではないと言うほかない。撮っている監督が事実だと言えば事実になり、虚構だと言えば虚構になるとか、演技者が訊ねるから虚構で、演技を職にしていない人が問えば、虚構ではなくなるというものではないからだ。それで言えば、演技を職業にしていようといまいと、およそ総ての人が、カメラを向けられると必ず演じてしまうものなのだと思う。そして、演じること、演じさせることを以って“ヤラセ”などと言うのであれば、ヤラセのない作品など一切ないし、そもそも物事の虚実の別を決するものが“作品のスタイル”などであろうはずがない。

 そのうえで、ドキュメンタリー映画の定義を、前記レクチャーの講師であった西嶋憲生氏が紹介してくれた、八十年前のジョン・グリアスンの時代の現実のアクチュアリティをクリエイティヴにドラマ化する映画とする立場から本作を眺めると、これは紛れもなくドキュメンタリー映画に他ならず、また、現代に生息している僕がイメージしているそこに装われているものが客観性であれ、作家的主体性であれ、対象との距離感を問題意識として顕著に窺わせるジャンルの映画という観点から眺めても、まさにドキュメンタリー映画以外の何ものでもない作品だったように思う。

 少なくとも本作の主題は、タイトルになっている『人間蒸発』ではない。それは題材に過ぎないのであって、主題に即したタイトルとするならば、映画という表現における虚実性からも、早川姉妹のみならず「人の証言」というものの虚実性という意味からも、例えば『虚実の壁』といったものになるべき作品だったような気がする。とりわけ、終盤になって大問題になっていた「とと屋の主人の証言と早川サヨの言い分の食い違い」が端的に示していたように、証言として言葉で表現されたものが事実である保証がないように、映像で表現されたものが事実とは限らない。証言における言葉と同じように、映像もまた言語にすぎない。言葉の記録性よりも映像の記録性のほうが客観性が高いということは言えるが、それは所詮、A氏の言葉よりB氏の言葉が正確だというほどの差異しかなく、証言といったコンテンツにおける信憑性となると、言語そのものとしての機能など問題にならない次元での“表現者の意思や文脈によって左右される性質のもの”であることを劇的に浮かび上がらせていたように思う。非常に荒削りな感じだけれども、なかなかの野心作だと思った。

by ヤマ

'11. 1.23. あたご劇場



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