美術館冬の定期上映会“空想のシネマテーク”
   第3回:「映画/リアル/現実そして自由」

①『100人の子供たちが列車を待っている』('88) 監督 ベアトリス・ゴンザレス
②『対話の可能性』('82)
 『極北のナヌーク』('22)
監督 ヤン・シュヴァンクマイエル
監督 ロバート・フラハティ
③レクチャー:大久保賢一  
④『ラ・ジュテ』('62)
 『ドルチェ~優しく~』('99)
監督 クリス・マルケル
監督 アレクサンドル・ソクーロフ
⑤『セブンス・コンチネント』('89) 監督 ミヒャエル・ハネケ
 高知県立美術館が (財)国際文化交流推進協会(エース・ジャパン)と共同主催で企画した~レクチャー&上映3回シリーズ~も最終回となった。速報チラシでは「フェイクそして/あるいは映画の自由」となっていたテーマが「映画/リアル/現実そして自由」と改題されていた。フェイクというテーマは実に刺激的で心惹かれたのだが、それなら『コリン・マッケンジー』を入れてくれればいいのにと思ったら、講師サイドからは提示のあったものを二年前に高知で上映されているとの理由で外した経緯があったようだ。それで言えば、『100人の子供たちが列車を待っている』も『ラ・ジュテ』もそれぞれ十二年前、五年前に上映されている。フェイクというテーマで大久保氏が『コリン・マッケンジー』をどのように語ってくれるのか興味深かっただけに少々残念だった。
 しかし、今回の“空想のシネマテーク”という企画上映の最終回として総括的な位置におくものとしては、改題したテーマのほうがふさわしかったかもしれない。TVに留まらず、さまざまな映像が氾濫し、流出するようになった状況のなかで、「映画とは何か」といういささか大仰ながらも根源的なところに向かうテーマは、今なればこそ必要だろうという気がする。メディア・リテラシーの問題は、最近ときどき耳にするようになったが、学校教育の国語の授業において言葉による表現技法や文章形式としての構文や文体について教えるようには、映像についての教育がされていないことに常々疑問と危惧を感じているだけに、こういう問題提起には強い関心が湧いた。本当は、今や従前の視聴覚教育とは異なった意味合いでの映像教育が施されるべき状況にある。
 そういう観点から見渡すと今回のプログラムは、1922年から1999年までの長い時間のスパンとともに、ドキュメンタリー映画やアニメーション、静止画映画までをも含め、世界の各地に渡る作品群のなかで、ビデオ作品も射程にいれた広範さにおいて「映画とは何か」を改めて問い直す形になっている。その意味では、いわゆる映画らしい観慣れたスタイルのものは一本もあてがわれておらず、その「映画とは何か」に迫ろうとするポイントというものがテーマにも掲げられた、映画の提出する現実とは何か、映画の自由とは何かという視点だったように思う。
 予め準備されたシナリオがなくても映画だし、俳優が登場しなくても映画であるどころか、人間が登場しなくても、映像が動かなくても、映画なのだ。フィルム撮影でもビデオ撮影でも映画だし、大人が撮っても子供が撮っても映画なのだ。では何でもかんでも映像がひとまとまりのものとして提出されれば、映画たりうるのかと言えば、そうではない。そこのところを大久保氏がどう語るのかが僕の最大の関心事だったのだが、テーマがテーマだけに映画にまつわるさまざまなファクターや側面に言及して、「記憶」「権力構造」「アクチュアリティ」「資本」「演じること」「アンチ」などなど多量のキーワードを惜し気もなく放射したような感じだったが、要点はさすがに明快で大いに共感を覚えた。
 つまり、映画の提出する現実とはあくまで映画によって作られた現実であり、それが映画の力であって、そこにおいては、実写でもアニメでも、俳優でも素人でも、ドキュメンタリーでもフィクションでも、映画という観点からは、総て等価のものであるということ。そして、素材でも技法でも主題でもなくて、映画の引き起こす出来事と時間そのものが映画だという見解だったように思う。もちろん、それらを捉え映像として記録したものが、観る者に意味を与え得る場合において、その映画が作品たり得るということなのだろう。

 今回が自分にとって初見となる四作品のなかでは『対話の可能性』が最も面白かった。彼の作品群のなかでも際立った出来栄えを感じさせるものだった。闘争、不協和、ディスコミュニケーション、うまくいってたものも必ず壊れ、延々と繰り返す人間の業のようなものがシンボリックに表れていて、造形技術の卓抜さと併せて構成力に圧倒される。

 『極北のナヌーク』では、敢えて最初に演出なしと出たクレジットが妙に胡散臭く、もともとフェイクというテーマのもとに選ばれていたことも相まって、例えば、最初のイヌイットの一見したところ一人乗りふうのカヤックから次々と家族が引き出されるところや氷原の小さな穴からアザラシを釣り上げる猟法など、実際に起こらないことではなかろうが、イヌイットのなかでも日常的な現実だとは思えない映像のような気がした。果たしてどうなんだろう。

 『ドルチェ~優しく~』にはいささか閉口した。画面が暗く、精神の病の名残を感じさせる島尾ミホの語りに気が滅入ってきつつあるところに、娘マヤの姿をホラー映画ばりのスタイルで捉えたりする仕立て具合に、妙に嫌悪感を催した。ソクーロフは、どういう意図でビデオを回していたのだろう。常に遠くを眺めるようなミホの焦点の合ってない視線が痛ましかった。

 『セブンス・コンチネント』は非常にスタイリッシュな作品だった。三年を三部に分けて、それぞれ手紙をしたためた一日をニュースの声による、混迷へと向かうばかりで先の開けない世界情勢を背景に綴り、家財の破壊と一家心中を敢行する一日を加えて、閉塞感と破壊のやりきれなさを執拗に描いていた。冒頭から10分以上も、声は聞こえど顔が映されることのない一家の姿に色濃く描き込まれた不在感。各部で繰り返し丹念に映し出される自動洗車機の場面での否応なく喚起される閉塞感。子供が大人と映し出される場面は常に威圧感を帯びている。最後の破壊の執拗さは、かくも存在の証をことごとく葬り去る必要があるのかと、観ている側の記憶への執着までもが脅かされるほどでやりきれない。残念だったのは、そういうものをなにゆえ作り手が描き出そうとしたのかが、自分には今ひとつビジョンとして開けなかったことだった。やりきれなさにのみ支配され、観終えて、やれやれと思わず溜め息をついてしまった。映画の力とは現実を作り上げる力であると言うならば、あれだけ物語の説明も脈絡も割愛していたのに、映画の作り上げた現実によって、確かに不在感や閉塞感、やり切れなさを喚起されたのだから、力のある映画であることは間違いない。けれど、とても好きにはなれなかった。おかげで午前六時という時刻まで嫌なイメージをまとってしまった。



参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_170.html

推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0203-1sukedati.html#sebunsukonti
by ヤマ

'02. 3. 2. 県立美術館ホール



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