『ムカデ人間』(The Human Centipede)
監督 トム・シックス


 マッド・サイエンティストの外科医ヨーゼフ・ハイター(ディーター・ラーザー)に口と肛門を繋ぐ手術をされて作られる“ムカデ人間”の先頭が日本人男優の北村昭博であることは、彼が地元高知の出身者なので前もって知っていたが、四つん這いになって繋がっている三人の首から下だけの写真をチラシで見てはいたものの、肛門に口を繋がれた後ろの二人が共に、アメリカから欧州に訪れている若い白人女性だとは思いがけなかった。三人とも上半身が裸なのに、リンゼイ(アシュリー・ウィリアムス)は、四つん這いになって地面についた手を支える腕でちょうど胸が隠れていたのと、最後尾に繋がれたジェニー(アシュリン・イェニー)の胸が薄いのとで、気付かずにいたので、かなり意表を突かれたのだった。

 それにしても、いやはや何とも呆れるばかりに悪趣味な施術なのだが、これを実際に行うことと映画という形でリアルに視覚化することには大きな隔たりがある一方で、人間にはこういう部分が決して特異なものと言い切れないことを妙に突きつけられてくるところがあって、さらに悪趣味極まりないような気がした。先ごろ観たばかりのドキュメンタリー映画霊長類['74](フレデリック・ワイズマン監督)から想起した、二十五前に観た日本映画海と毒薬や十八年前に観た香港映画『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』、去年読んだ皆川博子の死の泉などがまたしても思い起こされたのだが、ハイター博士に大義名分的な御題目を掲げさせていないところがいい。そして、彼の国籍設定をドイツにして実に安直にナチスの残虐性に繋げている安っぽさがまた、巧い具合に作品に見合っていたように思う。

 そうしたなかで、理不尽な施術を受ける三人をどういう配置にして人種をどうするかというのは、こういった着想の映画において、作り手自身が問われる最大ポイントのような気がするが、周到にも非適合者として最初に始末された白人男性を配置したうえで男2女2、欧米人3非欧米人1というバランスを取っていたことに感心した。しかも苛烈な選択を自身に課する“言葉を喋れる先頭”が非欧米人だった。果敢に隙をついて逃亡を図ったリンゼイが、口と肛門の2箇所ともに施術を受けるという意味でハイター言うところの最もツライ位置の真ん中に配されていたわけだが、最も早く衰弱し病んだのがジェニーであったように、実は肉体的に最もツライ位置にあるのは最後尾であり、先頭は、なまじ口を塞がれておらず動きの主導もできて意思表示がかなう分、却って精神的にはキツイ位置を与えられることになっていることを明確に示していたところに感心した。

 そこにはなかなか含蓄があって、はたして彼は最後に苛烈な選択をしたわけだが、それを何ゆえと解するのかということについて、観た人に訊ねてみたくなる作品だと感じた。僕には、絶望ではなく逆襲に見えた。絶望ならば、最初にメスを手に入れたときに決行するはずだから、そうしなかったのは、あくまで一矢報いたうえで、敢えてハイター博士の思惑を潰す意志を見せつけるためであり、それゆえに彼の眼前でなければならなかったからなのだろう。博士が解せぬはずの日本語のままで喚いたりぼやいたりし続けていた北村昭博の眼光と口調のもたらすインパクトに大いに説得力が宿っていたように思う。そして、彼が最初に堪えきれぬ排便をする際に手を合わせ、詫びていたリアル感が何とも堪らなかった。先ごろ観たばかりのコープスパフォーマンス『ひつじ』公演に触発されて感じた事々を改めて想起させられたような気がする。そういう意味で、実に悪趣味極まりない作品だった。



推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1747861995&owner_id=4991935
by ヤマ

'11.11.28. 美術館ホール



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