【午前十時の映画祭】
『情婦』(Witness For The Prosecution)['57]
監督 ビリー・ワイルダー


 俳優座のプロデュース公演による芝居『検察側の証人』は、二十五年ほど前に観た覚えがあるが、僕の生年の前年になる映画作品『情婦』のほうは、今回初めて観た。

 僕の生まれる前だけでなく育った時代においても、人は“見かけよりも中身”というのが、僕らが処世訓として教えられたことだったが、近頃の究極の商品化社会ともいうべき時代の流れのなかで、見かけに金を掛けさせるために、むしろ積極的に“中身より見かけ重視”の必要性を説く向きが現われてきたように感じている。こういう作品を見ると、改めて昔の価値観のほうが真っ当で味があるように感じられるのだが、それは、僕が老いの側に身を置くようになった証なのかもしれない。

 見かけの好感度で世渡りをしていくヴォール(タイロン・パワー)に比し、愛嬌なきクールビューティのドイツ女性クリスティーネ(マレーネ・ディートリッヒ)の秘めていた“愛する男に向ける献身と憤慨の想いの熱さ”にしても、守るべきことを守らない我がままさで時に尊大にさえ映る法廷弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)に一貫していた“法廷弁護士としての誇りと職務への篤実な誠心さと良心”にしても、その深さには表面に現れてきていた以上のものがあり、中身以上に演出された見かけによる露さなどとは無縁のものだった。そもそも法廷ものの常として、真実は、一見したところとは別にあるというのが物事の真理であるとされていた時代の価値観が土台になっている作品だと改めて思った。加えて、愛であれ、職務であれ、美徳とは誠実さであって、見かけの美しさや生真面目さではないという価値観にも支えられていたように思う。形式・勝敗・利得が重視される今の時代からすれば、もはや通用しない時代遅れの愚かさなのかもしれないが、本当に大事なものは、こちらのほうにあると思わずにいられない。

 何といってもウィルフリッド卿の人物造形が抜群に魅力的だった。世に知られた実力の程を背景に物言いも振る舞いも偉そうで、自身の無謬性に些かの疑念もないであろう人物のように見えて、誰よりも懐疑性を内に秘め、物事の真実に向ける目を失わない柔軟性を備えていて、扱いにくいけれども愛すべきという味のあるキャラクターを体現していて、見事だった。一歩違えば、嫌味にしかならない人物の愛嬌を生み出す源泉というものは、どこにあるのだろう。この人物造形がアガサ・クリスティの原作によるものか映画化作品での脚色かを僕は知らないが、二十五年前に観た芝居では、そこまでの印象は残っていないから、映画化作品でのチャールズ・ロートンの醸し出した妙味ではないかという気がしている。

 裁判が終われば、バミューダパンツを履いて静養に行くはずだったウィルフリッド卿が、名高きどんでん返しの顛末の後、見事に自分を欺き裏をかいたクリスティーネの犯した罪に対し、即座に「おい、弁護の準備だ!」と発するエンディングがなかなか素敵で、その声に、ブランデーの入ったボトルを提げて出る看護婦プリムソル(エルザ・ランチェスター)の配置の運びが絶妙だった。さすがビリー・ワイルダーだと感心させられた。こういう洒落た呼吸こそが醍醐味の映画で、ウィルフリッド卿とプリムソル看護婦との掛け合いが終始楽しい、なかなかよくできた作品だったように思う。
by ヤマ

'11.10.31. TOHOシネマズ4



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