| ||||||||||||||||||||||
美術館冬の定期上映会“ポルトガル映画祭2010”
| ||||||||||||||||||||||
上映された12作品のうち半分近くの5作品がマノエル・ド・オリヴェイラ監督の映画だったが、今回の企画で最も値打ちのあるのは、ジョアン=セーザル・モンテイロ監督特集とも言うべき初日のプログラムだったように思う。しかし、平日の昼からやって一体どれだけの集客を果たせたのだろう。より多くの人に見せることでの教育普及的成果よりも、企画実施の実績づくりのほうを重視しているのが透けて見えるようで少々嘆かわしい。だが、初日のプログラムの4作品中3作品は十年前の“ポルトガル映画祭”で上映されていて既見だったので、まだしも許せる気になったものの、それだけに今回初となる『黄色い家の記憶』['89]の上映を夜の最終回プログラムにしてくれていれば、観ることが出来たのにとの不満を覚えた。 『黄色い家の記憶』は、十年前に強烈な印象を残してくれたモンテイロ監督の「ジョアン・ド・デウス」シリーズの第一作となる作品だそうで、シリーズ最終作の『神の結婚』['99]を観た当時の映画日誌に「ブニュエルの好きな僕が初めて自身の内からの素直な感想として、彼の最も正当な後継者だという思いを抱くことができる作品に巡り会えたという気がした」と綴っていただけに、観逃したのが残念だった。 今回の企画は、アテネ・フランセ文化センター、せんだいメディアテーク、川崎市アートセンター、金沢21世紀美術館、京都「駅ビルシネマ」、神戸アートビレッジセンター、広島市映像文化ライブラリー、山口情報芸術センター[YCAM]、高知県立美術館、福岡市総合図書館という10施設で構成する公共上映ネットワークとしての“シネマテーク・プロジェクト”のようだ。これは「映画上映のための専門施設を持ち、映画史的、批評的なプログラムによる上映活動を目的とする全国の文化施設が連携し、これまで上映される機会のなかった映画史上重要な作品を上映・巡回するプロジェクト」とのことだが、それならば、ただ単に作品上映だけで済ませることなく、ネットワークで共同して公式カタログを作成するだけでなく、講義用のレクチャー・テキストを作成し、それを共通テキストとして各館の映像企画担当者がレクチャーを実施するべきだと思った。そうすることで、プロジェクトの趣旨をより積極的に果たすとともに、単独施設では人材育成を果たしにくい状況にあるなかで、全国各地にシネマ・キュレーターと呼べるだけの人材を育てていくツールにも活用できるはずだ。また、そのような切り口を提示すれば、おそらく文化庁も“シネマテーク・プロジェクト”への財政支援を強化しやすくなるのではないかという気がする。 とりわけ今回取り上げているモンテイロ監督の作品など、そういったレクチャーによって補足することで観客の鑑賞体験が飛躍的に豊かになる面の強いことが容易に予想できる格好の素材だったと考えられるだけに、なおさら残念な気がした。今後の“シネマテーク・プロジェクト”の進展に注目したいし、期待を寄せたく思った。 僕の観たプログラムは、いずれも高知初上映の作品だ。 映画祭2日目の午前中に観た『トラス・オス・モンテス』は、牧童の口笛に始まり白煙の中の汽笛に終わる、音楽を排した非常にスタイリッシュな作品。'70年代作品として、ドキュメンタリーと劇映画の境界を越えた独特の話法に歴史的価値の高さは感じるが、そのスタイリッシュな先鋭さが少々観念的で頭でっかちのような気がして、ある種、独善性が鼻に付くようなところがあるように感じた。 昼食後の『トランス』は、外国人女性を拉致し売春宿に売り渡す国際的な人身売買組織に目を付けられたソーニャ(アナ・モレイラ)の見舞われた過酷な運命が、硬質で透徹した視線で捉えられていて驚いた。コンテナに監禁され獣姦までも強いられる展開に挑んだ脚本も担っていた女性監督テレーザ・ヴィラヴェルデの他の作品も観てみたいと非常に強く感じた。 続く『私たちの好きな八月』は、午前中に観た『トラス・オス・モンテス』にも通じる趣向を備えた、ドキュメンタリーと劇映画の境界を越えた話法が魅力の作品ながら、実に対照的なまでに、こちらには自由で大らかなラテンの気質が音楽と共に強く感じられた。 従兄妹同士のタニアとベルデル(だったかな?)が橋の上でキスをする場面で、後ろを通っていた鼓隊が三三七拍子を打っていたのに驚いた。三三七拍子というのは日本古来のものかと思っていたが、もしかするとカルタやカステラなどと同じく、ポルトガル伝来のものなのだろうか。それとも別々に生まれたものがたまたま一致していたのか、はたまた日本からポルトガルに伝わったものなのか、いずれにしても縁の深さをつくづく感じた。映画を観ていると、こういう類の驚きに出会えるところが何とも嬉しい。 2日目の最後は、百歳を越えて今なお現役監督であるオリヴェイラの七十年前の長編デビュー作『アニキ・ボボ』。何とも記念碑的な貴重な作品にお目にかかることができて大満足だった。少年の泥棒の罪のほうはどうなの?と思わぬでもないが、今の時代にはもう望めない大人の余裕に意表を突かれながら、こういう大らかさが確実に失われていることを思い知るとともに、あれは恋の熱情ゆえに許されるのだろうとのラテン気質にやられたような気がした。 カルトリスが人形を盗み取るときや、夜中に窓辺から渡してテレジニヤにキスされた拍子に屋根を滑り落ちるときのスリリングさには目を見張った。 子供の囃し言葉に使われていたボボというのは、泥棒という意味だそうだが、『私たちの好きな八月』の三三七拍子同様、もしかしたらポルトガル伝来の言葉として、九州に伝わって性的隠語に転用されていたりするのだろうかとふと思った。 3日目は、オリヴェイラ監督作品の特集上映。'40年代の長編デビュー作『アニキ・ボボ』の興行的失敗から、以後二十年余り劇映画作品がなかったようで、'60年代、'70年代、'80年代、'90年代の4本立てとなっていた。それにしても今なお現役で七十年にわたる監督作品があるというのは驚異というほかない。 今回のポルトガル映画祭では、地元の村人たちの出演を得て製作された映画が、午前中に観た'60年代の『春の劇』の他、前日に観た'70年代のレイス&コルデイロ作品、'00年代のミゲル・ゴメス作品と3作品あったが、『春の劇』が最も鮮烈だったように思う。半世紀近く前のカラー作品の色構成をデジタル解析して'08年に再生させたというようなクレジットが最初に出たが、驚くほどの発色のよさに感銘を受けた。 山村で村人によって上演されるキリストの“受難劇の筋立てと現地感”という点では、メル・ギブソンの撮った『パッション』に近いものを感じたが、かの『パッション』を既に観てしまっていると、流石にそのインパクトには及ぶべくもないものの、聖書から引用された言葉の数々が“神の言葉”として発せられるとき、まるで日本の祝詞の節回しのように聞こえたのが印象的だった。そして、日本に落とされた原爆の記録映像が被爆者の姿とともに映し出されるに至って、何とも感慨深いものがあった。『私たちの好きな八月』の三三七拍子といい、日本とポルトガルというのは、特別な縁があるのだろうか。よもや神道の声調がキリスト教に由来するとは思えないだけに、本当に驚いた。 昼食後の『過去と現在 昔の恋、今の恋』は、愛と性の不条理を非常に知的で且つ破天荒な大胆さで構成している作品だった。露出度が非常に低いにもかかわらず、性の香り漂う危うさの濃厚ぶりが、まるでブニュエルの作品を偲ばせる映画だったような気がする。ラストシーンの、教会での知人の婚礼に遅れてきたヴァンダとリカルドの夫婦が居り場所を探してうろうろしている姿を真上から映し出した画面が、途中で出てきた覗き穴のシーンともども、なかなか効いているように思った。 続いて観た『カニバイシュ』は、全編を台詞なしの歌劇仕立てで構成した作品で、その画面の風格には感心させられたが、いかんせん楽曲のほうが少々一本調子で、歌声は良かったのだけれど、観ているうちに些か倦んできた。しかし、それを見越していたのか、最後に呆気に取られる展開が待っていた。タイトルから偲ばれる食人エピソードは、まだしもブラックユーモアなのだが、着ぐるみを被らせての食い合いに至ってはギャグに近いにもかかわらず、それでも映画としての格調が少しも損なわれたりしないことに最も驚かされた。 3日目の最後に上映された『神曲』については、実に知的に作られたオリヴェイラの作品を朝からずっと観て少々疲れてきていたところに「“精神を病める人々”の表札が掲げられた邸宅で、アダムとイヴ、キリスト、ラスコリーニコフ、ニーチェのアンチ・キリストら歴史的文学作品の登場人物たちが、信仰と理性と愛についての議論を戦わせる。…」などと紹介された、いかにも頭でっかちそうな二時間半近い作品だったので、これから引き続きそれを観て楽しめるだけの余力は、もう残っていないと判断して退散した。十年くらい前までなら僕には考えられないような選択なのだが、老いが来ているのだろう。疲れた状態で観なければ、さぞかし刺激的に思える作品なのだろうが、4本立ての最後で観るような映画ではないような気がした。 | ||||||||||||||||||||||
by ヤマ '11. 2.19.〜20. 美術館ホール | ||||||||||||||||||||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|