『ブラック・スワン』(Black Swan)
監督 ダーレン・アロノフスキー


 ダーレン・アロノフスキーは、レスラーでもレクイエム・フォー・ドリームでもそうだったように、痛々しさを描出させると並々ならぬ力を発揮することに改めて感心した。

 ただエンディングのつけ方に少々不満があって、踊り終えて倒れたまま立てなくなったニナ(ナタリー・ポートマン)を抱き起した振付師トム(ヴァンサン・カッセル)が救急車を呼ぶよう求める展開にしてしまうと、それとて必ずしも外傷ゆえのことではないという解釈をまるっきり否定することにはならないにしても、ニナの負傷が肉体的なリアルに負ったものであるという印象の側に寄り過ぎになってしまうような気がした。僕としては、瀕死の白鳥たるニナの負っていた深い傷は専ら心の傷であって、しかも生血を流すのと変わらぬだけの傷を負いながらの脱皮であることが芸術を極めていくうえでは求められることを描いた作品だと素直に受け取れる顛末にしていてほしかったように思う。

 物理的な自傷によって血を流すのと、そのような妄想に見舞われるほどの苦しみというのでは、やはり狂気の度合いが違っていて、前者だと些か狂気度が高くなりすぎてしまうように感じるからだ。

 僕は、芸術の恐ろしさ歪さを受け止めつつも、それをただの錯乱や狂気の陥穽に嵌まる悲劇的な顛末として捉えるよりは、常人には至れない境地に踏み入るうえで払うことを余儀なくされる苦痛やリスクによるものだと捉えているところがあって、その試練と拮抗できる力を以て“才能”と呼びたいと思っている。そのような芸術観を僕が抱くようになることに強い影響を与えてくれた作品が、映画化もされたアマデウスだったわけだが、かの映画においてモーツァルトが見舞われていた幻覚と錯乱を思うと尚のこと、ニナの見舞われていたものも幻覚までで貫徹してほしく思った次第だ。僕の受け止めでは、リリィ(ミラ・クニス)は実在のダンサーで、ヴェロニカ(クセニア・ソロ)がニナの内面の奥にいたダンサーだったのだが、ヴェロニカもまた実在したダンサーだったのだろうか。

 それはともかく、ニナ入魂の黒鳥の舞のシーンは圧巻だった。身体そのものが変容している場面と、身体はそのままに影が鳥になっている場面の交錯や、ニナの感極まっている表情の凄みは、それまでの痛々しさと不安に包まれ、常に怯え強張っている表情との対比において、ともに凄みを感じさせながらも対照的で、カタルシスさえ覚えた。映画でなければ叶わない表現、映画なればこその特撮の効果がいかんなく発揮されていて、大いに感心させられた。それだけに、ニナの超克と脱皮のみを示して終えて欲しかったように思う。

 それにしても、バレエというのは、極めて芸術的な表現行為なのだということを改めて感じさせられたように思う。どんな芸術作品にもある種のいびつさ、不自然な歪み、あるいは倒錯性といったものを感知したうえでの美が認められないと、僕は芸術性を享受できないような気がしているのだが、ある意味、バレエで示される身体表現ほど、そういったものを端的に具現化し、追求して視覚化している表現はないように思う。目に映る部分だけでもそれだけ顕著にアーティスティックなものと格闘しているダンサー自身の内面も、ダンサー同士の葛藤も、ダンサーと振付師との関係も、実にそういう意味での芸術性に色濃く支配されていて、いびつ極まりなかったように思う。ニナの母娘関係に至ってさえもそうなのだから、徹底していた。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20110519
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1721691557&owner_id=3700229
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2011/2011_05_23.html
by ヤマ

'11. 5.12. TOHOシネマズ6



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