『レクイエム・フォー・ドリーム』(Requiem For A Dream)
監督 ダーレン・アロノフスキー


 この自主上映会の主催者であるムービージャンキーは、昨年は年末にギャスパー・ノエ監督のカノンを上映して年納めをしたが、今年も後に尾を引く作品の上映をもって年納めをしたことになる。

 人間がぼろぼろになり、ぼろぼろにされていく有様をこれほどまでに生々しく描き出した作品は、そうそうあるものではない。しかも、描出だけでなくて、観る側に気分的な同調も与えるのだから、たいしたものだ。巧みに編集された映像と音の反復効果やほぼ一本調子と言っていい転落の物語のリズムによって、不愉快な気分にすっかり同調させらたところは『カノン』とよく似た鑑賞体験だったが、大きな違いは、『カノン』には最後にとんでもない罠が仕掛けられていて、映像表現としての実に鋭い問題提起を投げ掛けていたのに対して、この作品はもっと題材自体への関心のほうが強いように思われたことだ。しかし、映像スタイルは『カノン』よりも遥かに洗練されている。

 近年特に目立っているような気がするのだが、かつて実験映画で見掛けたような映像言語による話法が、商業映画にさまざまな形で取り込まれて顕著な形で一般化してきているような気がする。それがオーソドックスな形式によってドラマを語るだけでもってよしとはしない作家的野心の現れかというと、それほど気張り大仰に構えた形ではないなかで、自分たちの感覚に合う自然な語り口の一つとして、なんだか当たり前のようにして使われている感じのする映画をよく見掛けるようになったという気がする。

 それにしても依存体質のなれの果ての何とも凄惨なことか。自己実現の標としての“夢”とは似ても似つかぬ、現実逃避としての“夢”が、その依存体質のもたらす厄災への転落の後押しをしているところが哀しく痛ましい。理性では測りがたいような転落への道を歩むときというのは、誰しもがこういう魔の夢に溺れているのだろう。依存体質と魔の夢のカップリングは、破滅への直行便だ。しかし、現代はその危険に誰もが晒されている時代だという気がする。

 チラシに書き込まれていた「タバコ、コ-ヒ-、アルコ-ル、TV、ゲーム、携帯、メール、ダイエット、ジャンクフード、仕事、恋愛、SEX、ドラッグ…。寂しい、満たされたい、愛されたい。そんな気持ちをまぎらわせるため、何かに逃げてはいませんか?」という問い掛けにきっぱりとNoと言える人は少ないはずだ。そして、その依存が破滅に至るか至らないかは、結果が決めることでしかないのかもしれない。

 強く印象に残ったのは、非常に根深い医療不信だった。原作&脚本のヒューバート・セルビーJrもしくは監督&脚本のダーレン・アロノフスキ-のいずれかに、医療の名のもとで薬物中毒の果てに無残な最期を迎えた近親者が実際にいたのではないかと思われるほどに、辛辣きわまりないものがあった。

by ヤマ

'01.12.13. 県民文化ホール・グリーン



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