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『カールじいさんの空飛ぶ家』(Up) | |||||
監督 ピート・ドクター | |||||
ヤマのMixi日記 2009年12月12日01:16 予告編を観たときに感じさせてくれた観応えに見合った本編ではなかったように思う。むしろ併映のピーター・ソーン監督の6分の短編 『晴れときどきくもり』(Partly Cloudy)のほうが面白かった気がするなぁ。 *コメント 2009年12月12日 11:07 (ケイケイさん) ヤマさんの感想が拝読したくて、急いで今アップしたのに、がっくり(笑)。私はとっても良かったですよ(^v^)。 2009年12月12日 12:38 ヤマ(管理人) さっそく拝読しました。ケイケイさんのように映ってくればよかったけど、損しちゃいましたね(とほ)。 まぁ、睡眠不足で体調が万全でなくて集中力が落ちてたってのもあるんでしょうが、僕の関心点からの一番の不満は、ケイケイさんが映画日記に「私くらいの年になると、老人が過去を捨て去るのが如何に困難か、とても理解出来るのです。明日に向かって生きるのはもっと困難。事実もう一人出てくる老人は、過去の栄光にすがり、その栄光を汚すものの挽回にだけ生きています。過去にだけ向いて生きている。」と綴っておいでのカールとマンツの対照への踏み込みの物足りなさでした。冒頭からの一連の運びのテンポのよさと含蓄の豊かさによって掻き立てられたものが、いかにも凡庸な善玉と悪玉との対照に堕していることからくる失望感ですね(苦笑)。 ケイケイさんのご指摘どおりの違いというものが、どこから生まれたのか。その最大ポイントは、マンツが冒険を名声を得るための手段としていて、カールは、妻エリーと冒険そのものを愛していたことと、マンツにとって冒険は、カールのような“夢”ではなく“現実”だったことです。そこのところに触れてくる人生哲学を作品に宿らせることができたはずなのに、途中から一気に、ありがちな冒険スペクタクルへと雪崩打っていき、専らラッセル少年とカールじいさんのブレイブストーリーになってしまいました。 それがとても残念だったわけですが、前述のことに踏み込んでいくためには、ラッセルの動機においても、じいさんの手助けをして冒険することが、マンツ同様に、手段となっている設定が邪魔になるんですよね、きっと(笑)。 作り手が描きたかったことと僕が受け止めたかったものとがズレてしまったようです。 2009年12月13日 00:11 (ミノさん) どうしようかな~これ、とずっと考えてました。評判がいまいち‥だしヤマさんも‥ しかし今朝、私もふっと「老人は何故過去の話ばかりするのだろう。絶対未来の話しないよな」などと思ったんで、ケイケイさんの感想とリンクしてはいるんですが。老人が過去の話ばかりで未来の話をしないのは、未来→死の影がちらつく 過去の方が長くなるからだと思うんですが‥ 2009年12月13日 00:15 (ケイケイさん) ◎ヤマさん >ラッセルの動機においても、じいさんの手助けをして冒険することが、マンツ同様に、手段となっている設定が邪魔になるんですよね、きっと(笑)。 厳しいなぁ(笑)。ラッセルは手段でも、父と会いたいがためでしょう? 私なんか、もうそれだけで泣けて泣けて(笑)。 >ケイケイさんのご指摘どおりの違いというものが、どこから生まれたのか。 ヤマさんがお書きの部分もなんですが、カールにはエリーというパートナーがいて、今またラッセルという存在がいる。対するマンツには、下僕のような犬たちがいるだけ。話が出来る犬に改造しているというのは、マンツの孤独を表わしていたと感じました。 それって狭まっていく老人の世界だと思ったんですよ。老人が明日に向かう希望というのは、新たな人との関わりが重要なのだと、感じました。 ◎ミノさん もう未来に希望が抱けないと言うのも、あると思いますねぇ。 2009年12月13日 10:46 (olddog さん) 実のところこの映画に出て来る三人とも、冒険は単なる手段だったりします。主役のカール爺さんに至っては「逃走の為」という最も後ろ向きな手段であるという。 手段としての冒険から脱却出来た者が「Spirits of Adventure」を最終的に手中にし、生涯の目標がいつの間にか成就している、という図式がこの映画にはあって、二人の老人の対比はそこを軸にして見るとすっきりすると思います。 2009年12月13日 10:56 (ミノさん) なるほどぉ~。ケイケイさんとoldさんの書き込み読んでわかった気になる奴(笑)。逃避行が冒険になる、というのはいいなぁ。逃げるって、人を動かす最大のモチベーションなのよね~(笑)。 2009年12月13日 16:41 (olddog さん) 更に言ってしまえば、ケヴィンと冒険家マンツの関係の原典が『ロードランナーとワイリーコヨーテ』にある事に思い至る事によって、この映画が「いつのまにか見失ってしまったモチベーションの再発見」をその到達点にしている事に気付く仕組みにもなっている様に思いました。 2009年12月13日 17:59 ヤマ(管理人) ◎ミノさん、 そうですね、残り時間のほうが明らかに短いように思われるわけですから、未来よりも過去のほうに意識が向くのは自然なのでしょうね。 ◎ケイケイさん、 厳しいですか?(苦笑) 僕はラッセルに対してそれを言っているのではなく、作り手にとっての話をしたつもりだったんですが。でもって、「作り手が描きたかったことと僕が受け止めたかったものとがズレ」と思っているに過ぎませんよ。そして、老人と少年の“夢”にまつわる物語としては、『ウォルター少年と、夏の日』のほうが好みなんですね。 カールとマンツの違いとしての“孤独”の指摘については、僕もその通りだと思いますが、そうなると、一番の問題は、マンツが“孤独”に至った過程にこそあるわけで、そこを結果としての孤独状況のみを示して悪玉にしちゃうのは、それこそ彼に厳し過ぎるんじゃありませんか?(笑) 単純な善玉対悪玉の構図で語るのではなく、悪玉には悪玉に至らざるを得なかった哀しみが描かれていてほしいわけで、そういうものを描くタイプの作品とは違うアプローチの元にある作品なら、僕もそういう期待は抱かないのですが、上にも書いたように、なまじ「冒頭からの一連の運びのテンポのよさと含蓄の豊かさによって掻き立てられたもの」があったために、失望感を呼び起こされたのだと思ってます(たは)。 ◎ケイケイさん、 僕もそう思います。 ◎olddogさん、 三人とも“手段”だったというのは、慧眼ですね。もっとも僕は、逃走が必ずしも後ろ向きとは思ってないですし、カールの動機が逃走だったとも、あまり思ってません。僕は、囲い込みのようにして居場所を追われたから逃げ出したというよりは、それを契機に遣り残していたことに着手する弾みを得たように感じてました。だから、手段と映るよりも、忘れていた原点の思い出しのように映ったんでしょうね。 手段か目的かということの捉え方というのは、全く以って視点一つの差異ですから、彼の冒険を逃走のための手段と観る些か厳しい観方も否定しないところですが、僕の感受したものとは少し違和感があります。ですが、三人とも手段としての冒険から始まっているという視点に立てば、手段からの脱却こそが目的成就の差異となって現れるという図式の物語だというのは、論旨が一貫していますね。おっしゃるように、そこを軸にしてみると、すっきりしてくるようには思います。でも僕は、上述したように、カールにおいても手段としての冒険だとは思えなかったんですが。 ◎ミノさん、 妻に先立たれてからのカールじいさんの冒険が逃避に映るか、原点回帰に映るか、是非ご覧になってみてください。どちらが正解という類のことではありませんから。 ◎olddogさん、 『ロードランナーとワイリーコヨーテ』というのは、僕は知らないんですが、この映画作品の原典なんですか? それはともかく、「いつのまにか見失ってしまったモチベーションの再発見」というのは、キーワードだと僕も思うのですが、それがカールじいさんにおいて、逃避の手段として始めた冒険の過程において訪れ、“到達点”となったのか、僕のように、亡き妻エリーの遺してくれたアドベンチャーブックによって訪れ、それが彼の冒険を始める“出発点”となったのかの受け止めの違いによって、ご指摘の図式についての見解が大きく異なってきそうですね。 2009年12月13日 18:39 (olddog さん) 『ロードランナーとワイリーコヨーテ』は、ワーナーブラザーズの短編アニメーションです。バッグスバニーやトム&ジェリーの様に、長編映画の添え物として何本もの短編作品が作られ上映されました。 基本プロットはいつも一緒。どこからか走って来て駆け抜けて行くロードランナー(本作のケヴィンそっくりの鳥)を、あの手この手でコヨーテが捕まえようとしては失敗し続ける様子だけを描いたギャグスケッチでした。漫画映画の中ではロードランナーがどこから来てどこに走って行くのか一切言及されず、コヨーテが何の為にロードランナーを捕まえようとしているのかも謎のまま。彼等は走り抜ける事と捕まえようとする事だけに特化した、まさに「目的の存在しない手段」の権化として観客に笑いを提供していたのでした。 冒険家マンツの行動は、まさに「ただ鳥を捕まえる事だけを目的とした」コヨーテと同様。失地回復は冒険者本来の目的とはなり得ない事を忘れたマンツと、「伝説の滝の傍らに家を建てる理由はなんだったのか」を忘れてしまったカールとは、その時点で同一の存在です。 カールは古い冒険を終え、滝の元に家を据えた正にその瞬間に偽の目的の元に行動していた事に気付き、冒険者を冒険者足らしめるだけのモチベーションを持ち得る事に気付いたのだというのが、私の見解になります。脱却の機会を与えられた分だけ、カールはマンツよりも幸運であったという事も出来るでしょうね。 2009年12月13日 20:01 (ケイケイさん) >僕はラッセルに対してそれを言っているのではなく、作り手にとっての話をしたつもりだったんですが。 それは失礼しました >マンツが“孤独”に至った過程にこそあるわけで、そこを結果としての孤独状況のみを示して悪玉にしちゃうのは、それこそ彼に厳し過ぎるんじゃありませんか?(笑) マンツは確かに悪玉扱いでしたけど、登場当初は夫婦の子供の頃からのアイドルで、決して悪い人には描かれていなかったでしょう? 私は、悪玉でも悪人には思いませんでした。むしろ、過去の自分の栄光を取り戻す盲執に捉われた、可哀想な人だと思いました。マンツが追い詰められたのも、自己顕示欲や名誉欲が強い人だからだと、あの「自慢大会」で感じたので、個人的には別段あれ以上の描写は必要なかったです。 確かに後半からは通俗的な作りになりましたけど、過去を捨て去ることで再生する老人という重要なポイントは、この作りの方がしっかり浮かび上がったと思います。 私は、最後はラッセルのパパが来てくれると思っていたんですよ。でも、あれが現実ですよね。それをお互い不足しているマイナスとマイナスを足して、プラスに描いたオチだったでしょう? ファンタジーを描きながら、現実に生かせるオチに持って行ったところに、ちょっと感激しましたねぇ。 2009年12月13日 20:21 ヤマ(管理人) ◎olddogさん、 早速にありがとうございます。 『ロードランナーとワイリーコヨーテ』に直接的な記憶はありませんが、ご主旨の短編アニメということならば、僕も2000年に県立美術館で“甦るアニメ伝説”という企画上映を観た際のテックス・エイブリーの作品群に“トム&ジェリー”に通じる追っかけものを観た覚えがあります。 冒険家マンツの行動は、olddogさんがお書きのように「失地回復」という明確な目的があるので、ただ捕まえることだけを目的にした“追っかけ”とは異なる気がしますが、そのへんは、いかがなんでしょう? それと、エリーの遺したアドベンチャーブックで思い出したカールが、「“伝説の滝の傍らに家を建てる理由はなんだったのか”を忘れてしまった」というような場面がありましたっけ? 失念しています(とほ)。 また、「滝の元に家を据えた正にその瞬間に偽の目的の元に行動していた事に気付き」というような場面がありましたっけ? 僕は、ラッセルたちを救うために家を断念したことが、結果的に亡き妻の願いであり、所期の目的でもある滝の元に家を建てることを図らずも果たしていることを最後に観客にだけ見せていたのであって、カールじいさんに気付きを与えるような場面にはなっていなかったように思うのですが、なにせ上にも書いてあるように「睡眠不足で体調が万全でなくて集中力が落ちてた」状況で観ているので、あまり自信はありません(たは)。 ◎ケイケイさん、 カール少年の目に映った冒険家マンツは、確かにアイドルでしたね。その時点での善人悪人については、描出はなかったように思います。メディアから、骨だけじゃ信用できないと指摘されて悔しがってただけです。でも、じいさんになったカールと出会った時点では、形相からして悪人でしたよ。 確かにご指摘のように「可哀想な人」なんですが、その描かれ方が“哀れ”のみで、“哀しみ”でなかったところが物足りませんでした。でも、それはあくまで僕にとってであって、不足のない方も当然おいでるでしょうね。 「過去を捨て去ることで再生する老人という重要なポイント」というのは、ご指摘の通りだと思います。もっと言えば、“我執を捨てることでの”ということで、カールじいさんにおいては、エリーと暮らした“家”ですし、ラッセルにおいては、パパに来てもらうための“バッジ”だったように思います。その観点から言えば、ラッセルたちのために“家(過去でもあります)”を捨てたカールじいさんと、バッジ獲得には何ら繋がらないケヴィン救出のためにカールの元を離れたラッセル、我執に囚われ続けた冒険家マンツという図式でしたね。 そうしたなかで、カールじいさんだけは、図らずも捨てたことで所期の目的を果たし、ラッセルには、そううまい話は待ってはなかったわけですが、それでも、その代わりとなるに足るolddogさんもお書きの「Spirits of Adventure」の証たるエリー・バッジを手に入れたのですから、やはり我執に囚われないほうが報われるわけですよね。 2009年12月13日 22:56 (olddog さん) カールの動機に関わるご質問二点については、具体的な場面というよりも、既に俎上に上がっている場面に関する解釈の話になってしまいますね。 “伝説の滝の傍らに家を建てる理由"は何だったのかと言うと、「カールの妻エリーがそれを望んだから」という事になります。望んだ当人が死去している以上、今更カールが家を運んで行ったからといって、目的が完遂する訳ではありません。 この時点でカールは「妻の望みを叶える」という目的を"忘れ"、遂に滝の傍らに家を据え、しかしそこにはそれを見て喜んでくれる妻がいない事を思い知らされた時に、目的と思い込んでいた物が偽りであった事に気付かされた、という事になるでしょう。遂に滝の傍に鎮座した家の中に入り、お気に入りのソファに腰を下ろし、しかし隣のソファは空白のまま。ひとりぼっちで家の中に座り込んでいる限り、そこが南アメリカであれNYの工事現場のただ中であれ、さほどの違いはありません。 漠然とした言葉である"冒険"とは何を指すのかにカールが気付くのがこの場面であり、そしてこの場面において"初めて"エリーのアドベンチャーブックがカールに冒険を促す、しかも色とりどりのページによってではなく、最後のページの隅に書かれた短い言葉によって、という仕組みになっているのだと私は解釈しました。 それまでのカールは、妻のアドベンチャーブックと「妻の望みを叶える為の"冒険"」というシチュエーションを、自分への言い訳に使っていた訳です。丁度マンツが「鳥を捕まえて失地回復」という大義名分を言い訳にして社会に背を向けたのと同様に。 ここでも又解釈の相違という事になりますが、マンツの失地回復は「冒険者としてのマンツの復活」を意味しないでしょう。かつて少年少女であったカールやエリーを心酔させた"冒険者"はもう存在しません。未知への憧れと未踏に挑む気概こそが冒険者の行動原理であり、征服すべき目的である以上、そこから外れた全ての「目的」はワイリーコヨーテ的な何物かにしかならない、と映画は示唆しているのでは無いでしょうか。 2009年12月14日 00:15 ヤマ(管理人) ◎olddogさん、 「“伝説の滝の傍らに家を建てる理由はなんだったのか”を忘れてしまった」と「滝の元に家を据えた正にその瞬間に偽の目的の元に行動していた事に気付き」の2つの場面というのは、実は同じ1つの場面すなわちラスト場面のことで、描出というよりは、解釈の領域にあるものだということですね。 早々のご回答、ありがとうございました。 僕は、最後の場面を上にも書いたとおり「最後に観客にだけ見せていた」ように思っていましたが、「遂に滝の傍に鎮座した家の中に入り、お気に入りのソファに腰を下ろし、しかし隣のソファは空白のまま。」として明示されていたわけですね。 あのロケーションにある家に住んでるなら、カールの死後の世界のようにも思えますが、それなら隣にはエリーが腰を下ろしているはずですから、一人でなら、死んでませんね。その場合、「そこが南アメリカであれNYの工事現場のただ中であれ、さほどの違いはありません。」と解されることに異議は全くなく、同感です。 ですが、「目的と思い込んでいた物が偽りであった事に気付かされた」とまではならないのではないかと僕は思ったりしますが、それはともかく、僕の朧げな記憶からは、滝の元の家でのカールの姿が消えていたけれども、エリーのアドベンチャーブックの最後のページに書かれていた「新しい人生を」というような、エリーの遺した言葉の記憶はあります。それを目にしたのが滝の元の家においてであったのか、ラッセルの称された式典後の帰宅時であったのか、僕のなかでは定かではないのですが、後者の気がしています。 ともあれ、エリーの言葉は、新しい何かへの踏み出しこそが“冒険”の本質であることを示していると解されたわけですね。なるほどね。それには賛同します。そして、olddogさんの解釈では、カールじいさんは、その妻の遺した言葉と出会うまで、冒険の本質が何であるかが気づきとしては得られていなかったということですね。よく解りました。 僕は、そこのところについては、エリーの遺した最後のページを目にする前に、カールはラッセルと共にしてきた冒険体験によって気付きを得ていたと解します。そして、だからこそ、エリーの遺した最後の言葉の意味を“冒険”として、即ち「Spirits of Adventure」で以って受け止めることができるようになっていたのだと思います。その言葉によって気付きを与えるのは、カールに対してというよりも、観客のほうに対してという感じを受けました。 ところで、妻の死後、カールじいさんがエリーのアドベンチャーブックを目にしたのは、この最後の場面が初めてってことはなかったですよね?(苦笑) いろんなことが余りに朧げで申し訳ないのですが、ちょっと確認しておきたくて。 アドベンチャーブックと「妻の望みを叶える為の"冒険"」というシチュエーションを、カールが自分への言い訳に使っていたというのは、逃走の言い訳という解釈なんですよね? ふーむ、あれは自分の内において言い訳を要するような逃走だったんでしょうかねぇ。なんだか無性に嬉々としていたように思うんですが。まぁ、少々厳しく、クールに客観視すれば、カールの行動は“逃避”“逃走”とも解せますし、そのことには、先にレスしたとおり異議を感じないのですが、少なくとも、カール自身のなかでは、あれは妻に会いに行く(より正確には“妻の遺志の実現への挑戦”ですが)ための冒険であって、逃走ではなかったように僕は思います。 マンツの“失地回復”についても、それは目的ではなく手段(言い訳)であって、意図(目的)は“社会に背を向けること”のほうにあったというのも、僕には主客転倒の違和感が少々ありますが、非常に興味深い視点ですね。自分の業績を認めようとしなかった社会への腹いせのほうが先立って悪へ向かったと解されておいでなんですよね? なるほどね。 いずれにしましても、「未知への憧れと未踏に挑む気概こそが冒険者の行動原理であり、征服すべき目的である…と映画は示唆している」との結論には同感です。判りやすく明快な真理ですものね。 2009年12月14日 07:42 (olddog さん) >ところで、妻の死後、カールじいさんがエリーのアドベンチャーブックを目にしたのは、この最後の場面が初めてってことはなかったですよね?(苦笑) 大丈夫です。あの本は劇中でも折に触れて登場し、常に夫妻とともにあったものですから。劇中の描写で言えば、子宝に恵まれず落胆するエリーにカールがそっとアドベンチャーブックを差し出し、別種の希望と生き甲斐を指し示す場面、エリーを南米旅行に誘おうとカールが思い立つ場面、そして家を追い出されそうになったカールが荷物を整理する場面と幾度も出てきます。 であるからこそ、逆にあの本は「逃避への誘い」にはなっても「冒険への誘い」にはならないとも言えるのではないか、と私は思ったのでした。 先に述べた様に、今更「伝説の滝」の元に家を運んでも、それを望み共に喜んでくれる妻は既にいません。冒険は完遂しない訳です。彼女の願いはただ「気に入った場所に家を建てるだけの事」のような、安直な達成感で事足りる様なものでは無かった筈ですから。その事実から目を逸らし、体裁上の冒険を強行する事は、要するにカールに取って「認めたく無い現実からの逃走」にしかならない、という事にはならないでしょうか? 実の所、冒頭の回想シーンと比べてその後の本筋に首を傾げる観客が多い、というのは、結局それが「逃避」であり、そこに達成感が存在しない事をきちんと映画が伝え、きちんと観客がそれを受け取った結果なのだと私は思っています。偽りの目的によりかかったお仕着せのアドベンチャーでしかないものが、「人生」という70年がかりの本物の大冒険に敵う筈もありません。 空飛ぶ家で冒険に出た筈のカールが、実際は家に"縛り付けられ"、"引き摺って歩く"羽目になるというのも象徴的なビジュアルです。それらは意図して作り出された退屈と倦怠であり、それらの行き着く先、即ちカールの将来像として、退屈と倦怠の果てに捻くれ切ってしまったマンツを登場させるというのも又、意図的に行われたものでしょう。 だから一転、家財を既に放り出し身軽になったカールの家が、ラッセルとケヴィンという"未来への希望"を取り戻す為に再び舞い上がる場面からの一気呵成で、演出も映像効果も急にいきいきと輝きだすのは、カールの開眼に呼応したものだと解釈できます。一方で未だ開眼出来ないマンツは相変わらず退屈な存在のまま退場する。思えばかなり損な役回りですね。彼は「悪人」というよりは「不幸な男」だったのでしょう。丁度世の老人の多くがそうなってしまった様に。 心の若さを称揚し過ぎる事には一抹の気持ち悪さも伴いますが、PIXERは例によって入念な下準備と設定の妙でその部分をクリアして作品に纏め上げてみせた、と私は解釈しています。中盤において観客が違和感を感じた事、ヤマさんをして「予告編と方向性が違う」と思わせたという事は、そう考えると必然的な事だったのだとも思えるのです。 2009年12月15日 00:38 ヤマ(管理人) そうですか、そんなに出てきてましたか、アドベンチャーブック(笑)。でも、そのなかで開かれたのは、そう多くはなく、カールの冒険の出発点になった“思い出し”を与えた場面と最後の頁に亡き妻の遺した言葉を見つけたときくらいではありませんでしたか? で、頻度が多いと“逃避への誘い”になって“冒険への誘い”にはならないというのは、どういうことからなんでしょうか? 僕は頻度よりは本の“扉を開く”かどうかのほうが大きい気がします。それと共に喜んでくれる妻が生存しているか否かが妻の満足ではなく、“冒険の完遂”を左右するようにも思えないのですが、要は、冒険であるか逃避であるかというよりも、亡き妻の望みを叶えようとすることは、あくまで妻を喜ばせるためのものだから、妻亡き後はそれゆえに叶えようがないことをご指摘なさっているわけですよね。 で、僕が思うのは、亡き妻の願いを叶えようとすること自体が、そもそも亡き妻のためにしていることではないんではないかということです。カールじいさんが着手した冒険は、それこそ“安直な達成感”を得るためなどではなく、久しぶりにアドベンチャーブックという本の扉を開いたように、扉を開いて新たな何かを始めたい思いの行動化にほかならず、さればこそ、上述した「新しい何かへの踏み出しこそが“冒険”の本質」なれば、カールじいさんは、冒険に旅立ったと観るのが僕の解釈なんですが、我々の間でのこのあたりの違いというのは、けっこう普遍性があるかもしれませんね。 その後の本筋に首を傾げる観客が多いということで言えば、僕もそうだったわけですが、それが「逃避」を感知したからだとの自覚は僕には全くありません。でもそれは、カールが自分では“冒険”だと信じながら、実は“逃避”していたことに無自覚であったのと同じようなものなのではないかという御指摘なんですよね? まぁ、自覚していないに過ぎないとの指摘に対しては何とも言いようがなくなりますが、逃避なり逃走だからワクワク出来ないというようなものではないことは、『大脱走』という作品を想起するまでもなく、核心的な差異ではないような気がします。 カールが「家に"縛り付けられ"、"引き摺って歩く"」姿の象徴性にしても、それが“退屈と倦怠”という形に繋がるというのは興味深い感受の仕方ですね。少々意表を突かれたのですが、確かに家に閉じ込められると退屈ですし、引き摺ってまで歩くことには倦み疲れるものかもしれませんが、カールじいさんにとって、それは果たして“退屈と倦怠”だったのでしょうか。 それよりも、極普通に、それらの象徴するものとは即ち“捨て去り離れることなどできない掛け替えのないもの”と受け取るほうが、僕は自然な気がしますから、olddogさんの説は、とても興味深く感じました。 マンツが「退屈と倦怠の果てに捻くれ切ってしまった」とみる観方も面白いですね。 彼に捻くれを見て取る場合は、普通は、世間が認め評価してくれなかったことに先ずその理由を求めるだろうと思われるのですが、「偽りの目的によりかかったお仕着せのアドベンチャー」に従事することの“退屈と倦怠”が促したという観方には、かなり意表を突かれました。 僕自身は、実は「家に"縛り付けられ"、"引き摺って歩く"」姿の部分も含めて、上述してあるように「ありがちな冒険スペクタクルへと雪崩打って」いったと観ており、そういった場面自体に対しては、退屈も倦怠も催しはしておらず、上述したように「冒頭からの一連の運びのテンポのよさと含蓄の豊かさによって掻き立てられたものが、いかにも凡庸な善玉と悪玉との対照に堕していることからくる失望感」によって物足りなさを覚えたのですが、その鍵を握っていたのは、マンツの人物描写だった気がしています。 olddogさんは「彼は「悪人」というよりは「不幸な男」だったのでしょう。」とお書きになっていますが、それには描出とは異なる想像力による補完が、とても大きいような気がします。そのこと自体は、僕もよくしていることで、鑑賞という行為の醍醐味の一つであるわけですが、その鍵を握っているのは、作品と鑑賞者の間に起こる触発力の発揮にあろうかと思います。 そこには大まかに言って三つの要素の相互作用が働いており、先ずは、作品自体に宿っている触発力、次に鑑賞者のポテンシャル、最後に、得手不得手や物理的条件にも左右されやすい鑑賞状態というものが大きく影響しているような気がしています。マンツを「不幸な男」として見做すことは、たぶん正鵠を射ている気がしますが、描出においては、単純に示されたりはしていなかった気がしています。 2009年12月15日 08:06 (olddog さん) >で、頻度が多いと“逃避への誘い”になって“冒険への誘い”にはならないというのは、どういうことからなんでしょうか? 日常において頻繁にあの本を開いている夫妻にとっては、"冒険への誘い"は常に傍にあるものであり、ある日突然やってくる「契機」にはなり難いと思うのです。実際、映画の中ではそれは、体の弱ったエリーをカールがしごく実際的な方法で南米に誘おうとするショットで描かれています。カールは飛行船ではなく飛行機のチケットで夢を叶えようとし、ベッドの中のエリーが開いているのは例のアドベンチャーブックでした。 結局はその試みも頓挫してしまうのですが。エリーは南米旅行を叶える事無く病床に伏し、たぶんカールはチケットの存在を告げる事も無かったでしょう。 劇中では、カールはエリー存命中に既に「エリーの願い」を思い出している。しかもそれを叶えようと動き出してもいたのでした。そしてそれが結局叶わぬまま妻との死別を迎えた時、「妻の夢を叶える為の冒険」が、夢見た当人不在のままカールの元に残されます。それは既に冒険への希求というよりは強迫観念に近いものでしょう。 家を奪われ追いつめられたカールが、突如あの本によって「伝説の滝」を思い出した訳では無く、(身も蓋もない言い方をすれば)カールにとってはもう逃げ込む先がそこにしかなかった、という事なのです。彼が開いた扉は冒険への扉ではなく、緊急脱出ハッチの様なものだったのでは無いでしょうか。 ですから、「そもそも亡き妻のためにしていることではないんではないか」というヤマさんの解釈に関しては、私も同様に思っています。但しヤマさんはそこにポジティブな「新しい冒険」を見出し、私は追いつめられたカールが"妻の意志"を言い訳にした自己欺瞞を見出した、という事なのでしょう。 いずれにしてもボロ家に風船を括り付けて飛ばしてしまう、という行動はある種の逃避ではありますが、それが味気ない日常からなのか、それとも立ち向かうべき現実からだったのか、という点が、私とヤマさんの解釈の最も異なる所ですね。 一度は軽々と宙に浮かんだ家が中盤ではカール(とラッセル)を縛り付けている描写・・・というか解釈に関しては、同時に縛り付けられたカールが何を見、何を見ようとしなかったかに着目してみるのも面白いかと思います。 終止興味深げに周囲を見渡すラッセルに対して、カールの視線は滝を見据えて動きません。かつてのカールにとっての英雄、マンツの失墜の契機となった古代鳥ケヴィンが目の前に出現し、しかも自分になついてくれていると言うのに、その事に思い至りもせず邪魔者扱い。ここでの彼は冒険の目的にのみ執着し「冒険する楽しみ」を失った男として描かれます。 同時にそんな彼がラッセル達との触れ合いによって徐々に解きほぐされていく過程もここでは描かれている訳ですが、年老いた元冒険家マンツが「解きほぐされなかったカールとして」登場し彼等の前に立ちはだかるのは、だから必然的な展開だったのだと思います。 私がマンツを「不幸な男」と定義したのはその為です。カールは自分の強迫観念を最後に"捨て去る"事に成功しましたが、マンツは「生きた古代鳥を手に入れる」という強迫観念を最後まで払拭できず、その為に破滅します。確かに安直な対比ではあり凡庸と言えば凡庸ですが、ネガ像にはネガ像なりのプロフィールやバックボーンを備えていて、本作においてそれは「善玉」と「悪玉」の対比、それこそ映画冒頭のニュースリールから始まって周到にあちこちに配置されて来たディテールの比較により導きだされるものであり、必ずしも"想像力による補完"は必要ない部分でしょう。 作品と鑑賞者との間で起こる作用、そこから触発される(時には作り手でさえも思い及ばなかった様な)作品の新しい側面の発見については私もおおいに称揚する所ですが、それにはまず映画の中に用意された情報を十全に読み取るという作業を経る事が必要でしょう。殊に、作中に十重二十重にディテールを折り込む事で有名なPIXER作品の、特にシニカルな構造を持つ幾つかの作品を手がけたピート・ドクター監督作品ですから、一件凡庸で安直に見える場面であってもそこに分け入っていく事は、決して無駄にはならないと思います。 2009年12月15日 21:18 ヤマ(管理人) 「作品と鑑賞者との間で起こる作用、そこから触発される作品の新しい側面の発見」 これこそ、鑑賞の醍醐味ですよね。僕もolddogさん同様、大いに称揚するところです。ただ、そのために先ず必要となるのは、おっしゃるところの読み取り以前に、その作業に自ずと向かえるモチベーションであって、それがもたらされるか否かにおいて大きな部分を占めてくるものが何であるのかという観点で、僕は前述の三要素を挙げたのでした。すなわち、1に「作品自体に宿っている触発力」、2に「鑑賞者のポテンシャル」、3に「得手不得手(好み)や物理的条件にも左右されやすい鑑賞状態」。それらの相互作用によって、御指摘の想像力を働かせた読み取り作業に必要な注視を支える集中力の発揮の程が、たぶん決まってくるのではないかという気がしています。 その点では、今回の鑑賞で、僕は普段ほどの注視を果たすには至らなかったのですが、それでも、olddogさんの記憶の助けを借りながら、思い出しと読み取り作業に向かっています。そのモチベーションをもたらしてくれているのが、まさしくolddogさんのこちらへの書き込みで、大いに感謝しているところです。先ず以って、お礼申し上げます。 さて、談義の続きですが、頻繁に本を開いていると、ある日突然やってくる「契機」にはなり難いとのご意見についての僕の所感ですが、前回のコメントで「でも、そのなかで開かれたのは、そう多くはなく、カールの冒険の出発点になった“思い出し”を与えた場面と最後の頁に亡き妻の遺した言葉を見つけたときくらいではありませんでしたか?」と尋ねたうえで問うたところには、実は意味があって“ある日突然やってくる「契機」”が何によるかは、僕は単純に頻度の問題ではないように思っています。いろいろな要素が絡み合ったタイミングとか状況に左右される度合いのほうが大きく、それによって何気なく見慣れていたものが異なった相貌を現わし、異なった意味合いを持つようになることは珍しいことではありません。 カールじいさんにとっての「アドベンチャーブック」にしても、毎回開いていたわけではなく、開いていたとしても、どういう気持ちで開くのかによって、意味は異なってくるのですし、同じ本であっても、「エリーの“遺した”アドベンチャーブック」という形で現れるのは、妻を亡くすまでは起こり得ない現われ方で、僕はアドベンチャーブックについても、ブックそのものよりも“遺し”のほうに大きな意味があるのだと解します。 『グラン・トリノ』における「教会へ行く」ことを求める妻の言葉にも同じことが言え、ウォルトにとって、そのこと自体は妻の生前から聞かされ慣れていたことなのですが、妻を亡くしたことによって明らかに意味が違ってきていましたよね。掛け替えのないパートナーを亡くすというのは、そういうことだろうと思います。 また、頻度そのものに関しても、お示しくださった頻度であれば、尚のことウォルトの妻の教会行きの誘いよりも遥かに頻度は乏しく、アドベンチャーブックを久しぶりに手にして、というような言い方をしても、生活感覚からは全く違和感のない話ではないかと思うのです。ここ数ヶ月、僕は一時間足らずではありますが、週に幾日も囲碁を楽しんでいますが、五年以上も全く碁石にも触れてなかった時間においては、その楽しさをすっかり忘れていました。忘れていることや思い出しについての人の感覚というのは、そういうものだろうと思います。 従って「いつのまにか見失ってしまったモチベーションの再発見」が、カールじいさんにおいて、亡き妻エリーの遺してくれたアドベンチャーブックによって訪れ、それが彼の冒険を始める“出発点”となったと解することに今なお違和感はなく、僕には、そのほうが自然です。妻を亡くしたことによって明らかに意味が違ってくることの重さがそこにあるからです。とはいえ、観察眼的には、それをも含めて“逃避”と呼び得ることには異論ありません。 また、カールじいさんの旅立ちが「冒険への希求というよりは強迫観念に近いもの」と解することにも僕自身には違和感が残ります。それは『グラン・トリノ』でウォルトが妻亡き後、教会に足を運んでいたことを強迫観念に駆られてとは思えないのと同じに。 olddogさんが「そもそも亡き妻のためにしていることではないんではないか」という僕の解釈と同じ見解にありながら、正しく我々の違いを「ヤマさんはそこにポジティブな“新しい冒険”を見出し、私は追いつめられたカールが“妻の意志”を言い訳にした自己欺瞞を見出した、という事なのでしょう。」と認識してくださっているところの違いが僕に生じているのは、こういったあたりのことから来ているのかもしれませんね。 今回新たに「終始興味深げに周囲を見渡すラッセルに対して、カールの視線は滝を見据えて動きません。」とのご指摘の元に提示してくださった解釈は、とても興味深いものでした。 “冒険の目的にのみ執着し「冒険する楽しみ」を失った”カールとラッセルの比較で、僕が触発されたのは、今回の我々の談義の出発点でもあった“手段と目的”に係るものです。カールの場合、目的だったか手段だったかでは、olddogさんは手段に立っておいでましたから、ここでも、冒険自体が目的ではなく、冒険を手段とする叶えたい目的への囚われを語っておいでるんですよね。でも、僕は、ご承知のように、カールは冒険が目的、ラッセルは、冒険がバッヂ獲得のための手段だったと観ているわけですから、両者の違いは、自ずと出てくるもののような気がするわけです。すなわち、まさに目的としたことそのものに携わっている者の余裕のなさと、目的そのものとは違うところで関わっている者の余裕ということになります。 改めて、カールにおいては、かの冒険が単なる手段ではなかったことが示されていることに気づかせていただきました(礼)。 少し誤解があるといけませんが、ケイケイさんのおっしゃっていた「可哀想な人」に対して「確かにご指摘のように「可哀想な人」なんですが、その描かれ方が“哀れ”のみで“哀しみ”でなかったところが物足りませんでした。でも、それはあくまで僕にとってであって、不足のない方も当然おいでるでしょうね。」とコメントしたように、「不幸な男」と解することに異論はありません。 解することには異論がないけれども、描出されていたのは、不幸な“哀れさ”であって、マンツの哀しみに踏み込んだ描出はなかったように感じています。 PIXERの作品群が世間で“大人の鑑賞に堪え得る”などという嫌な表現のもとに高い評価を受けているのは、おっしゃるように「作中に十重二十重にディテールを折り込む」ことで単純さを追い遣っているからだと、僕も思っていますが、今回の作品にもそのことが窺える部分が多々ありながら、マンツの人物造形の一点においては、やはりolddogさんもお書きの“「善玉」と「悪玉」の対比”に単純化されているのが僕には不満で、そこで描出を添えておいて欲しかったのが“マンツの哀しみそのものが窺える人物造形”というものでした。 プロフィールやバックボーンからの想像や解釈にのみ委ねるのではない“表現”として、直接的に鑑賞者の味わえる人物造形によって提示して欲しかったように思うわけです。でも、そういう人物造形からは意図的に離れていたんでしょうね、きっと。 2009年12月15日 22:30 (olddog さん) 映画鑑賞に関してはやはりその後誰かと「語り合う」事は、より作品に分け入り記憶と解釈を新たにする大事なプロセスになりますね。私の方はと言えば、作品を気に入った時にありがちな"手放しの全肯定"に陥りかけていた所を、ヤマさんとの一連のやりとりによって改めて各場面、各描写の意味合いを掘り下げる契機となり、こちらこそ感謝しております。 アドベンチャーブックに関するやりとりに関してはどうやら平行線に陥りそうなので、簡単に提示させていただきますが、「妻との死別によってアドベンチャーブックの持つ意味合いが変化した事」自体は私もその通りと思います。しかしこれも先に書いた話と同様、「叶えられなかった夢の象徴」即ち強迫観念の一部としての側面を備えた、という見方も有り得る訳です。 そして「契機」という事であれば、劇中においてはアドベンチャーブックよりもはっきりとした形でそれは描かれています。カールが発作的に暴力を振るったのは、工事現場の従業員達が「彼の家を損なった為」、彼が数百の風船とともに旅立ったのは彼が「家から引き離されまいとする為」、そして劇中彼は度々自分の家に「エリー」と呼びかけています。彼にとっては家そのものが、妻の残した本以上に行動を促す契機として作用しているのです。 ウォルト・コワルスキーにとって、教会に赴き、懺悔する事が結局たいした意味を持たなかった事、彼の「本当の"懺悔"」が自宅の地下室へと通じる階段で行われた事と同様、カール・フレデリクソンにとっても(少なくとも劇中の2/3は)彼と彼の「家」 = 常に傍に妻がいた自分の半生と切り離される事こそが行動原理となっている訳です。 とある事物が与える影響は確かに環境の変化と共に変化します。しかし変化の仕方は様々であり、かつその影響の与え方の大小も様々です。『カールじいさんの空飛ぶ家』においては、アドベンチャーブックが最大の影響を、それも良い方向に発揮するのは、物語がもう少し進んだ先においてであったと、やはり私は思います。 >僕は、ご承知のように、 カールは冒険が目的、ラッセルは、冒険がバッヂ獲得のための手段だったと観ているわけですから、両者の違いは、自ずと出てくるもののような気がするわけです。 すなわち、まさに目的としたことそのものに携わっている者の余裕のなさと、目的そのものとは違うところで関わっている者の余裕ということになります。 この部分に関しても、私は逆の印象を受けました。カールが余裕を失っているのは、目的の完遂一歩手前で道を阻まれた為、と見ていましたので。不慮の事故により家から放り出されよじ上る事もできない。"目的" = 「伝説の滝」と自分の間には険しい峡谷が横たわっている。大きく迂回している間にヘリウムが抜けて風船が萎んでしまったら万事休す。そんな状況下で、カールは周りの一切に目もくれず、遮二無二滝を目指します。それはどうひいき目に見ても、目的の渦中にあり目的遂行を楽しんでいる者の姿ではありません。この時点で、今カールが実践している「未踏の地の探索」即ち冒険行は目的ではなく手段に成り下がっているのです。カールが「目的だと思っているもの」に到達する為の単なる通過点として。 という訳で、私の示唆はヤマさんの到達した洞察とは正反対のものだったのでした(笑)。それはそれで映画を発端として解釈の深化という面では喜ばしい事ですが、些か複雑な心境でもあります。 マンツの人物像については、私は映画の中のディテールによって充分に描写されているものと思っています。そこに彼自身の「哀しみ」が存在しないのは、彼が最後までカールの得た洞察に気付かず、自身の正しさを信じて疑わなかった為でしょう。その事自体が、彼を見る観客の「哀れみ」を誘うという仕組みも、この映画の人物相関図は作り出していたと思います。 2009年12月16日 07:49 ヤマ(管理人) それぞれの見解が異なると、不毛な論議に陥りがちですが、そうはならずに、互いの差異に対する了解と納得、確認を重ねて、差異のなかにもある共通点、共通点のなかにある差異について、それぞれの受け止めた解釈の深化と補修に向かう談義をしていただき、本当にありがたく思います。 こういう作業は、なかなか一人ではできないものですし、また全く同じ意見であるよりも、異なるほうがより刺激的です。 「契機」についても、また興味深い提起をいただきました。 亡き妻エリーの遺品どころではなく、彼女そのものと同一視している“家”の存続危機こそが、遺品たるアドベンチャーブックよりも、カールに直接的な行動を促す契機だったはずとの解釈には、納得もあるのですが、僕においては、それは契機というよりも、前提として用意されている条件ないしは行動化に向かわせ得る状況として意識されていたような気がします。 問題は、そこにおいて、実際に足を踏み出す“契機”として、何が作用したかということです。先のコメントで『グラン・トリノ』を引いた際には言葉が足りていませんでしたが、僕は、亡妻の遺言をウォルトの懺悔の契機と観ているわけではなく、頻度高く接し慣れているものが、「異なった相貌を現わし、異なった意味合いを持つようになること」の例示として引いたものです。 『グラン・トリノ』の場合は、拙日誌にも綴っているように、彼に遺言の履行をさせた直接の契機は、遺言そのものよりも、その時点で彼が「秘めていた覚悟の程」のほうにあると観ています。また、僕は拙日誌にも書いたように、教会のほうでの懺悔に対して「たいした意味を持たなかった」とは観ていないので、地下室に至る階段で漏らした悔悟と対比させて軽重を観る立場にありませんが、契機が重いか、その前提として用意されている条件ないしは行動化に向かわせる状況が重いか、について評価を加える視点自体にあまり心が向かないのが本音です。 本作で言えば、カールじいさんの冒険への踏み出しにおいて、愛妻の死と、家の存続危機と遺品たるアドベンチャーブックのいずれが、最も影響を与えたのかということに対して判定を加えることには、大した意味を見出せない気がします。ただ面白いなと思ったのは、先の“手段か目的か”の話を始める際に「手段か目的かということの捉え方というのは、全く以って視点一つの差異ですから」とお話したのと同様に、“契機か前提状況か”というのも、視点一つの差異なんだなという気付きをいただけたことです。 「余裕のなさ」に関しての逆の印象ということについては、どうやら目的と観るか手段と観るかで違ってくるものではなさそうですね。 僕は「目的としたことそのものに携わっている」がゆえに「余裕がない」と受け止め、olddogさんは「目的ではなく手段に成り下がっている」から、目的遂行を楽しめない(即ち余裕がないということでしょうか)と御覧になっているわけですよね。 でも、そもそもご提起いただいた論点の前提にあった視点である「終始興味深げに周囲を見渡すラッセルに対して、カールの視線は滝を見据えて動きません。」との指摘が「"目的" = 「伝説の滝」と自分の間には険しい峡谷が横たわっている。大きく迂回している間にヘリウムが抜けて風船が萎んでしまったら万事休す。そんな状況下で、カールは周りの一切に目もくれず、遮二無二滝を目指します。」との場面での状況を指しているのであれば、その余裕のなさというのは、手段か目的かの違いによって生じていることではなく、操縦を担っているかいないかの違いのほうではないのかしらという気がします。まぁ、ラッセルには目的地は格別ないわけですから、操縦を担っていても、そうはならないのかもしれませんが、自分自身の目的地ではなかったとしても、操縦者として課せられた目的地があって、そこへの到達が阻まれそうになれば、操縦者ゆえに余裕はなくなるわけで、それは、ここで談義を重ねてきた論旨における“手段か目的か”とは、同じ目的という言葉ではありますが、少し意味合いが違うのではないかという気がします。 「マンツの哀しみ」を描かずに観客からの哀れみを誘う仕組みは、それこそが作り手の意図によるものだとの御見解には、「そういう人物造形からは意図的に離れていたんでしょうね、きっと。」と記したように、僕も同感です。ですが、その意図そのものに僕が感じている不満があって、それはケイケイさんのコメントへのレスに書いたように「カールとムンツの違いとしての“孤独”の指摘については、僕もその通りだと思いますが、そうなると、一番の問題は、ムンツが“孤独”に至った過程にこそあるわけで、そこを結果としての孤独状況のみを示して悪玉にしちゃうのは、それこそ彼に厳し過ぎるんじゃありませんか?(笑) 単純な善玉対悪玉の構図で語るのではなく、悪玉には悪玉に至らざるを得なかった哀しみが描かれていてほしいわけで、そういうものを描くタイプの作品とは違うアプローチの元にある作品なら、僕もそういう期待は抱かないのですが、上にも書いたように、なまじ“冒頭からの一連の運びのテンポのよさと含蓄の豊かさによって掻き立てられたもの”があったために、失望感を呼び起こされたのだと思ってます」ですから、そういうアプローチを求めなければ、自ずと人物像にも不足はなくなるわけで、olddogさんが“映画の中のディテールによって充分に描写されているもの”と受け止めになることに対しては、何の異論も違和感もなく、納得しています。 2009年12月16日 20:13 (olddog さん) >“契機か前提状況か”というのも、視点一つの差異なんだな この部分は、私も話を重ねていて成る程と思った所でした。 私はカールの「家との断絶」を契機と捉え、ヤマさんは「家との関係性の積み上げ」を前提に据えた。一方で、ヤマさんが日常からの逸脱を示唆する引き金と解釈したアドベンチャーブックを、私はカールの脳裏に刷り込まれた強迫観念と捉えている。劇中の重要な小道具ふたつの意味合いが、私とヤマさんではそのままひっくり返っている訳です。 その結果、頑固さ故に我が道を"行き過ぎて"失敗する(まさにウォルト・コワルスキー的な)カール像と、居場所を次々と締め出され遮二無二最後の目的地に追い立てられる(一種ランディ・"ラム"・ロビンソン的な)二種類のカール像と、それぞれのカールにとって居心地の良い二種類の映画が我々の前に立ち表れて来ました。その両者に対して真贋鑑定を下すのは野暮と言うものでしょう。 『グラン・トリノ』のウォルトの最後の一日に関しては、私はヤマさんとは異なる比重の元に物語を読み解いていますので、ここでの対話と同様の擦れ違いが発生しそうです。『(私流の)カールじいさんの空飛ぶ家』との関連に話を絞れば、ウォルトの契機("本当の目的"に向かって心を決めた瞬間)は、彼が懺悔に赴くその前の晩、惨劇の後一人ベッドで思慮に耽る時に訪れています。それは丁度カールがアドベンチャーブックの最後のページに妻の言葉を発見する瞬間に呼応するでしょう。ウォルトが懺悔に行き、床屋で身なりを整え、実地検分を済ませ、そして少年タオと最後の会話を交わす過程は、私の解釈では「家を軽くする為に家財一切を放り出している」過程なのです。 ですから、それまでのカールの行動は「それまでのウォルトの行動」同様、間違った目的地/解決策を選んだが故の危うさが、常につきまといます。確かにそう考えていくと、この二本の映画は風合いは違えど良く似た構造を持っていますね。 家から放り出された後のカールが何等かの意味で「操縦者」であったかという疑問には、私は否定的です。それは、「操縦者に課せられた目的地」という考え方そのものがカールにとっての強迫観念になっている点にあります。幼い頃のカールとエリーにとって、そこが「未踏の地」であり「見た事も無い風景」でさえあれば、目的地はどこでも良かった筈。彼等にとっては未踏の地に足を踏み入れる事こそが冒険の本分なのですから。 それなのに今、老境を迎えたカールは未踏の地のただなかに足を踏み入れながら、それを無視し、とある一点に辿り着く事にのみ躍起になっています。エリーを含めて、誰もそんな事を望んでいないにも拘らず。幼い頃に夢見た目的に達している事に気付かず、心の中に作り出した別の目的地を追い求める姿は、自発的な"操縦"というよりは、やはり幻想の目的地に"引きずり回されている"様に私には映りました。 これもまた視点一つの差異の結果ですね。そもそも大文字の「冒険」という言葉は何かを追い求める過程を指す言葉であって、それ自体は手段とも目的とも結びつきません。我々は幼い頃のカールとエリーに過程そのものを欲する姿を見、一方で映画が進むに連れて過程を経た後に到達する物を示唆され、そのどちらをも「目的」という言葉で括り込んでいます。両者の間にある差異がヤマさんの仰る「意味合いの違い」であり、そのどちらを採択するかで映画が何を軸に進んでいくかの印象が変わって来るのでしょう。 一本の映画に対するふたつの視点がどこから当てられているかが、大体明らかになった現時点で、そろそろ私から口出し出来る種も尽きてきました。マンツの人物造形に関して「悪玉には悪玉に至らざるを得なかった哀しみが描かれていてほしい」というヤマさんの希望について、もう一度『グラン・トリノ』を引き合いに出して、締めくくりにしたいと思います。 ご存知の通り、あの映画には議論の余地が無いくらいの「悪玉」が出てきますが、彼等が悪玉に至らざるを得なかった理由を説明するのは、劇中たった一言の台詞によってのみ。それだけで観客は彼等が置かれた状況を理解します。マンツが悪役に至った理由に関しての方が、もう少し観客は情報に恵まれているでしょう。冒頭のニュースで私達は彼が謂れの無い非難と屈辱を受け、国を追われた姿を見せられています。観客はその後彼が「生きた古代鳥を捕まえる」という悲願を未だ達成出来ず、しかも幾人かの冒険者によって彼の悲願を横取りされるという強迫観念を抱いている事も(マンツ自身の口から)示されます。 そして何より、観客は“非難と屈辱を受けて故国を追われ、悲願成就の為に必死になっているもう一人の老人”を見、彼がどの様にして彼の強迫観念から自由になったかを見、その契機となったものが、もう一人の老人には訪れなかった事を知ることができます。 この部分は、私もケイケイさんのご指摘に賛成します。一人の老人にはまだ冒険を柔軟に楽しめる少年と人なつこい来訪者があり、もう一方には下僕としての犬達しかいなかったのです。それは充分に哀れむべき事であり、しかしマンツ自身は、そうした理由で自分が哀れまれる事を頑に拒むでしょう。丁度ギャングスターを目指した少数民族の少年達が哀れまれる事に反発する様に。 …但し、そうした人物造形は、先に述べた私流の「視点」即ち“偽りの目的を求める逃避行の存在”を是としなければ成立しないものであり、そうした視点を外れると、先に述べた数々のディテールは意味の無い来歴に堕してしまいます。そして当然、「だからこちらの視点から見るべきだ」と主張する様な真似は、映画鑑賞という行為においては許される事ではありません。 ふたつの視点のうち、一方は映画をよりすっきりと若しくはより「都合良く」見終える事ができ、もう一方は様々なエクスキューズを抱えて劇場を出る事になりますが、私には両者のどちらがより豊かな映画体験なのかを判定する事は出来ません。ただ、そうしたエクスキューズが存在しなければ、『カールじいさんの空飛ぶ家』という一本の映画を、ここまで掘り下げて解釈する事もなく、ただ一本の良い気分にさせてくれる映画として消費するままに終った事は間違いの無いところですね。 2009年12月19日 08:15 ヤマ(管理人) 忘年会が二晩連続で続き、返事が遅くなって申し訳ありません。また、普段ほどに集中して観ることが出来なくて、細部の記憶が怪しい相手に、詳細に突っ込んだ談義を重ねていただき、ありがとうございました。おかげで随分と記憶の補充ができたような気がします。 カールじいさんの冒険における「重要な小道具ふたつの意味合いが、私とヤマさんではそのままひっくり返っている」というのは、実にそのとおりですね。こういうところがひっくり返るのか!と、互いに意表を突かれる思いをするほどの差異が生じた理由は、連続性に対する受止めの差異の大きさからなんでしょう。 olddogさんは、カールにおいて冒険が思い出すことを要しないどころか、強迫してくるほどに常に意識の中にあった夢としてご覧になっていて、僕は、遺品のアドベンチャーブックによってリアルに立ち上がってきた夢として観たから、後先の関係でひっくり返ってしまうんですよね。面白いですね。 「頑固さ故に我が道を"行き過ぎて"失敗するカール」ということでは、僕は、頑固さ故に我が道を行き過ぎたのではなく、「頑固に我が道を貫いていたなかで」で、失敗ではなく、「放棄」もっと言えば、「友のために諦めるという犠牲を払う」になるのですが、いずれにしても、そもそもが真贋を問う類のことではないですよね。 『グラン・トリノ』の拙日誌は、こちらにありますので、ご覧いただき、ここで交わしたのと同じく、互いの感想の差異と共通点について意見交換してみたく思います。この作品については、双方共に一致して高い評価を与えているでしょうから、今回とは少し違った土俵での談義が交わせるような気がするので、触発されるものがありましたなら、掲示板のほうをお訪ねください。 さて、こちらの契機については、僕も、ウォルトが「秘めていた覚悟の程のほうにある」と先のコメントで書いてますように、olddogさんと一致してしていますね。でも、ウォルトの“契機”とカールの“到達点”が呼応するというのは、今ひとつピンと来ないところがあります。 また、ウォルトがその覚悟の元に、その前に片付けておくべきことに淡々と臨み、心の整理をしていくことが、カールが目的地に辿り着こうとするために払う犠牲としての家財処分を行う過程と呼応するという解釈についても、たちどころには解せずにいます。 ですが、olddogさんが受け止めたカール像からすれば、ウォルトに重なる部分を見出すことへの了解感はありますけどね。 冒険の本分が目的地よりも未体験ゾーンへの踏み入れにおけるプロセスにあるというのは、僕も同感です。でも、その冒険が単なる体験ではなく“冒険行”として実施される場合、地点と地域というゾーニングの大小はあれど、何らかの目印というか目的地を持つのは、むしろ当たり前のことであって、目的地を抱いて懸命にめざすことを以って、冒険行の冒険性が阻害されるようには、僕は感じないのですが、olddogさんは、その遮二無さに“本末転倒”を感じたということですよね。 そういうことも、それはあろうかとは思います。目的地と目的とは「=」ではないのですが、重なる部分もあるので、そのことへの許容度によって、本末転倒感は違ってくるでしょうね。「冒険それ自体は手段とも目的とも結びつかない」と言うよりは、手段が冒険になる場合も、目的が冒険になる場合も、共に有り得るとの観方を僕はしますが、加えて(目的地を持とうが持つまいが)冒険それ自体が目的となる“場合”もあって、「冒険それ自体は“目的地”の有無とは結びつかない」と言うほうが、僕の感覚にはしっくりくる感じがあります。 “悪玉の哀しみ”については、ケイケイさんのコメントへのレスに「そういうものを描くタイプの作品とは違うアプローチの元にある作品なら、僕もそういう期待は抱かない」と書いたように全ての作品に求めるわけではありません。そして単に作品タイプの違いだけで、求める求めないが決まるほど単純でもなく、むしろ求めてしまう場合のほうが少ないのかもしれません。 確かに『グラン・トリノ』の少年達には、「プロフィールやバックボーンからの想像や解釈にのみ委ねるのではない“表現”」として直接的に鑑賞者の味わえる形での描出が、“悪玉の哀しみ”として、人物造形による提示がされたりはしていませんでしたが、そのことに対しての不満は、僕は些かも抱いたりしておりません。その違いが何なのか敢えて理由付けをするなら、マンツの“悪玉の哀しみ”の描出を僕が求めないではいられなかった思いがどこから来ているかによるように思います。 「ケイケイさんのご指摘どおりの違いというものが、どこから生まれたのか。その最大ポイントは、マンツが冒険を名声を得るための手段としていて、カールは、妻エリーと冒険そのものを愛していたことと、マンツにとって冒険は、カールのような“夢”ではなく“現実”だったことです。そこのところに触れてくる人生哲学を作品に宿らせることができたはず」とケイケイさんのコメントへのレスに書いたように、カールとマンツは、冒険という同じ土俵のうえに置いて対比対照させられる存在として僕には映ってきました。物語構造がそういうふうに設えられていますよね。 他方、『グラン・トリノ』における悪玉少年たちは、ウォルトと同じ土俵のうえに置かれて対比対照させられる存在としての物語構造の元に配置されたりしていません。そういう違いが「ムンツにとって冒険は、カールのような“夢”ではなく“現実”だったことにまつわる人生哲学にも繋がってくるようなマンツの人物造形の描出」を僕に求めさせたのでしょうね。 言わば『3時10分、決断のとき』のベン・ダン・チャーリーの 主要三人の男たちの人物造形による対照のようなものを求めてしまったわけです。悪玉・善玉といった“役割配置による対照”と“人物造形による対照”は、作劇手法として明らかに異なりますから、先に「意図的に離れていたんでしょうね、きっと」と記したように、そのことを理解してはいるのですが、先にも述べたように、「冒頭からの一連の運びのテンポのよさと含蓄の豊かさによって掻き立てられたもの」がなまじあっただけに「いかにも凡庸な善玉と悪玉との対照に堕していることからくる失望感」に見舞われてしまったのであって、『グラン・トリノ』においては、そのようなチグハグが僕のなかに生じる余地がなかったということなのでしょう。 ともあれ「そして当然、“だからこちらの視点から見るべきだ”と主張する様な真似は、映画鑑賞という行為においては許される事ではありません。」との基本的認識は、かねてより僕も思い至っているところなので、この一点での共通認識さえ揺るがなければ、いかに見解が相違していようが、談義を重ねていけるわけで、そうしたプロセスを経ることができたのは、とてもありがたく、また貴重でした。 僕は、エクスキューズとサプライズが、映画に限らぬ表現たるものの二大刺激だと、かねがね思っています。そういう意味では、刺激的な作品でもあったわけですが、刺激を感受しても、それが直ちに掘り下げに向かうとは限らず、僕においては『カールじいさんの空飛ぶ家』は、通り過ぎていく作品群の一つになったと思います。 それをこうしてolddogさんの書き込みからモチベーションをいただくことで、図らずも『グラン・トリノ』や『3時10分、決断のとき』といった格別の作品を、自ずと引き合いにすることができるだけの談義をしていただきました。重ねてお礼申し上げます。 2009年12月20日 20:52 (olddog さん) こちらも少々ご返事が遅くなってしまいました。不況とはいえやはり師走は色々とたてこみますね。 マンツという人物像に関する印象の相違は、やはりそのまま前回まで話して来た「"冒険"なるものの位置付け」に直結している事が明らかになって来たのが今回の収穫でした。飛行船の名前でありこの映画自体のテーマでもある"Spirit of Adventure"ですが、実はこの言葉、まさにSpiritの如く人によって形を変える、かなり捉えどころの無いものに思えて来ました。 折角のお誘いという事でもありますので、『グラン・トリノ』に関してはヤマさんの所の掲示板に続きを書かせていただきます。こちらに関しては明確な解釈の相違というよりも「力点の置き方の違い」程度のものですので、余り話を転がす事ができそうにありませんが・・・。 2009年12月20日 23:21 ヤマ(管理人) 自分が感じたものに対して“理由付け”を果たす作業は、自分自身で課すよりも、やはり求められて応えるほうが、より活性化されますよね。そして、思わぬ視点を戴くことでの“収穫”というのは、とても実り多く感じられます。 『グラン・トリノ』の拙日誌、ご紹介申し上げるまでもなく、お読みいただいていたそうで、ありがとうございました。早速、拙サイトの掲示板のほうに向かいます。 2009年12月22日 22:31 (ミノさん) 見て来ました。というか「寝てきました」[前半](爆) 見た分だけで言いますと、カールじいさんが自覚していたかどうかは不明ですが、カールじいさんの魂は飽きていた、見慣れた風景に。見慣れた家で、慣れた椅子に座って安心だけど、彼の魂は飽き飽きしていた。そこで、事件が背中を押して、新しい風景を見に行った。逃げるのが直接のきッかけとして。 動機はなんであれ、冒険を通して魂が再生していく話なんですが、どうも前半も退屈で寝てしまったんです。なにがつまんなかったんかなぁ。カールの家が飛ぶシーンで、まず心情的にクライマックス迎えるはずなのに、全然盛り上がらず‥ 2009年12月22日 23:54 ヤマ(管理人) こら、肝心のマンツ登場場面をオヤスミしてちゃ、あかんやないの(笑)。 それはともかく、カールじいさん、喪失感でも空漠感でもなく、“飽き”ですか(苦笑)。見慣れた風景と孤独な余生に飽き飽きしてたんですかねぇ、やっぱ(笑)。いずれにせよ、契機は、やはり“逃避”とな。ふーむ。 映画から逃避して睡眠へと向かっていた魂が同調したようですな(笑)。 なにがつまんなかったのか、それを振り返ってみるのは、けっこう鑑賞眼を深めてくれるように思いますよ、お挑みください。僕は、前半で掻き立てられたものが満たされなかった失望感でしたが、そこんとこをパスした方の盛り上がれなさって、どこから来るんでしょうね(笑)。 2009年12月24日 19:48 (ミノさん) 世間は寝た鑑賞者に冷たいです‥ あのう、前半、滝でウダウダするとこまでは起きてました。ここまでで、お話に求心力がないのと、カールじいさんに魅力がないなあと思い始めてました。思い出のシーンから、家が飛び立つシーンが、つながってないんですね。テンションが。いきなり風船でという唐突感、なかったですか? マンツはあまり関わりなく、過ぎたんですが(笑)、前半ヨボヨボだったカールじいさんはなぜ後半スーパーじいさんになっていたのでしょうか‥ 人間の脳は、新しい風景、体験が一番の活性剤だそうですから、カールじいさんも、腐ってばかりいないで、保健所送り(老人ホーム)がきっかけになって新しい世界を探しにいったんでしょう。記憶は確かに支えにもなりますが、明日に向かう妨げでもありますね。 2009年12月24日 23:30 ヤマ(管理人) そーか。ハナからとは言わないけれども、早々の内に盛り下がってたんですね(笑)。 僕の場合、おっしゃるところの唐突感ってのは別になくて、さんざっぱら予告編で観ていたからか、お~来た来た ってなもんだった気がしますが、ここのコメント欄で早々に「睡眠不足で体調が万全でなくて集中力が落ちてたって」白状しているように、寝てこそいないけれども、記憶があまり鮮明ではありません(たは)。 てなありさまではありますが、前半ヨボヨボでしたっけねぇ(苦笑)。うなだれ、しょぼくれてはいた気がしますが、それは歳より喪失感のもたらしていたものだったんではないですかね? それが、スーパーじいさんになっていったのは、やはり“Spirits of Adventure”を実地のなかで徐々に獲得していったからでは? 「人間の脳は、新しい風景、体験が一番の活性剤」ってのは、その通りだと思います。映画を観ることの効用もそこんとこに通じるものアリですよね。記憶の功罪というのも、僕の歳にもなると尚更に身に沁みます(苦笑)。『グラン・トリノ』のウォルトにおいても顕著でしたねー。 | |||||
編集採録 by ヤマ '09.12.11. TOHOシネマズ7 | |||||
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