『3時10分、決断のとき』(3:10 To Yuma)
監督 ジェームズ・マンゴールド


 もう久しく映画市場から中年男向けの作品が激減しているなか、このところ『バンク・ジョブ』やら『その土曜日、7時58分』やら『96時間』を続けざまに観て、少し風向きが変わってきたのだろうかと感じていた。そうしたなかで観たこの作品は、製作時期から少し遅れての公開らしいから、やはり風向きが少し変わってきているのだろう。嬉しいことだ。亡き父親が好んでいた西部劇というのは、僕の映画鑑賞の原点なのだが、近頃はほとんど見かけなくなっている。だから、それだけでも嬉しいところに、ベン(ラッセル・クロウ)、ダン(クリスチャン・ベイル)、チャーリー(ベン・フォスター)の主要三人の男たちの人物造形がとても印象深いものだったから、場面的には昔ながらの都合のいい不自然さが横溢している作品に対して、いささかの不満もなく楽しめたように思う。

 観方によっては、ダンに心を移したベンに捨てられたチャーリーの悲恋もののようにも映る物語だったのが興味深く、なにゆえベンがダンに思いを寄せて行ったのかを思うと、存外奥行きのある含蓄が浮かび上がってくるような気がする。

 聖書の箴言を諳んじ、手慰みで達者なデッサンを描き付けてしまう無法者の早撃ちベンには、おそらくダンにも通じる実直というものが資質的には備わっているように思えて仕方がなかった。だが、世間というものが人の実直に相応の報い方をする仕組みになっていないことにおいて、古今東西にそう大きな違いはなく、ダンよりも遥かに力量豊かで有能なベンにとっては、実直な生に見合う世間ではないがゆえに、恵まれない生育環境から受ける人生の風雪に対して、実直に生きることを捨て無法者たることに己が力量を注ぐことで、人生なり神に報いを返すような生き方をしてきていたように思う。誰にも制御されず恣欲に生き、人から畏れられ、女性にもてても、彼には然したる充足感も達成感もなく、人生をお迎えが来るまでの暇潰しのように感じながら生きている風情があったのは、彼が本当に過ごしたかった生き方を断念してきていたからのように見えた。世間に対して怖いものなしのように振舞いながらも、そういう意味では、彼は世間というものに敗れた男であり、そのことに誰も気づいていないけれども、唯一人彼自身が身に沁みてそれを感じているという孤独な人物だったように思う。秀でた力量を備えた人物は誰しもその力量に見合った報われ方がされないことに耐えられないがゆえに、彼は彼の人生をやむなしとして引き受けているつもりだったのだろう。

 ところが、ダンと出会い、自分には及ばないまでもひとかどの力量を備えながら、到底それに見合った人生を過ごしているとは思えないにもかかわらず、地べたを這うような人生を実直に歩んでいる存在を目の当たりにし、彼がいかほどの男なのか値踏みをしつつ興味を惹かれ、遂には自分には真似の出来なかった“もう一つの在り得たかもしれない自分の人生”を体現していると感じるに到ったのではないだろうか。そして、なまじ破格の力量を備えていたことで無法者としての挫折にも会わず、軌道修正するに到らなかった自分が逸してしまったものを見せつけられた気にもなったようだった。ベンの救出に訪れてダンを殺したチャーリーを射殺した場面で、冷静さを欠き、彼らしからぬ激情に駆られている感じが窺えたことが効いている。

 それにしても、こういう作品を観ると、かっこよさこそが男のアイデンティティであり、憧れなのだと改めて思う。チャーリーがベンに惚れ、ベンがダンに惚れたのも、それゆえなのだ。チャーリーは、ベンに強さと賢さにおいて自分の及ばない“自身の憧れ”を見出し、ベンもまた、自分には真似のできない生き方を選んでいたダンの勇気に対し“自身の憧れ”を見出していた気がしてならない。

 そういう意味では、父親であるダンよりもベンのほうに憧れと尊敬の眼差しを送っていたウィリアムに、最後には父親への“尊敬”を言葉にして贈らせるに到ったのだから、ダンにとっては命を掛けるに足る仕事にはなったわけだ。実人生では、なかなか失地回復の機会は得られにくいとしたものだけれども、本気になれば、そういう場は、決してなくはないようにも思う。




参照テクスト拙日誌『決断の3時10分』(3:10 To Yuma)['57]


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090903
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1001_5.html
by ヤマ

'09. 9. 4. シネリーブル梅田



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