『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』('54)
監督 大曾根辰夫

 一昨年は、片岡千恵蔵の内蔵助『赤穂浪士』['61年・東映] 監督 松田定次、昨年は、長谷川一夫の内蔵助『忠臣蔵』['58年・大映] 監督 渡辺邦男を上映した弁天座が今年選んだのは、松本幸四郎の内蔵助で、今度は松竹作品だった。

 何でもGHQから禁じられていた忠臣蔵を戦後初めてタイトルに掲げた映画化作品らしい。本来は233分の大作ながら、松竹から届いたフィルムの尺は188分程度で、45分くらい飛んでいるようなのだが、どうやらこれが現存している最長版とのこと。そのせいなのか、或いはGHQの禁止からまだ日が浅い故の後遺症なのか、討ち入りでの斬り合い場面が少なかったように思う。

 映画作品としては、一昨年、昨年と上映してきた2作品に比べると、少々緩慢でやや見劣りがしたのだけれども、昔の役者には、今の役者にはもう望めない貫禄があって、それを観るだけでもある種の満足感があった。

 印象深かったのは、四十七士以上に、最後に脱落した毛利小平太(鶴田浩二)に光を当てていたことと、討ち入り後に亡き主君(高田浩吉)冷光院の墓前での報告場面だった。吉良上野介(滝沢修)を討ち取り、本懐を遂げた義士を引き連れ、泉下の主君に報告した後、義士たちに礼を述べる場面で、内蔵助が義士たちを視野に入れたうえで言葉を掛けるために、振り返るのではなく一群の最後方に下がり、後ろに回って配下の者の背に向かって座して口上を述べていた。その言葉に対しても、義士たちの誰一人振り返ろうとはしない。いずれも、主君の墓に尻を向けることになるからだろうが、今の時代だと時代劇においても、こういう細やかな演出ができなくなっているのではないかという気がした。また、義士たちの後ろから礼を述べ、伏して頭を垂れた内蔵助の手元が敢えて水溜りになっていて、それをものともせずに手を突く姿に内蔵助の思いの強さを窺わせる演出になっていた。リアリティから言えば不自然な話で、わざわざ水溜りの前に座す必要はないわけだが、演出効果を上げるうえでは、“水溜りをものともせずに”というのがほしかったということなのだろう。

 また風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとやせんという内匠頭の辞世はよく取り上げられているが、吉田忠左衛門の歌らしき君がため思いぞつもる白雪を 散すは今朝のみねの松風が前面に押し出されていたのが目新しかった。花の巻ゆえの前者、雪の巻ゆえの後者の押し出しという意匠なのだろう。

 例年どおり、主催者である地元の住民団体「弁天座運営委員会」の面々が、討ち入り義士や上野介の扮装をして表に立ち、スノーマシーンによる雪を降らせて入場口までの場を彩る、芝居小屋での上映会ならではのもてなしがされていたが、恐ろしく客足が冷え込んでいたのが何とも勿体なかった。
by ヤマ

'09.12.14. 弁天座



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