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『ウォルター少年と、夏の休日』(Secondhand Lions) | |||||
監督 ティム・マッキャンリーズ | |||||
ハブ爺さん(ロバート・デュヴァル)がウォルター少年(ハーレイ・ジョエル・オスメント)に語る“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”というものを、かつての僕らは、ちょうどウォルター少年が二人の爺さんから教わったように、アメリカ映画から学んだ気がするのだが、この映画でガース爺さん(マイケル・ケイン)が繰り返し口にする“本物の男達”がいなくなったと感じられるように、僕には“本物のアメリカ映画”が滅法少なくなったような気がしてならない。だから、こういう作品を観、ここで賞揚される男性像にアメリカ映画の懐かしくも素敵な郷愁を掻き立てられると、思わずグッと来る。 何と言っても、二人の爺さんがいい。風体や所作もさることながら、発する言葉の数々と人や物事に対する距離感の持ちように深い味があって、とても素敵だ。第一次世界大戦の頃にアメリカを出て、四十年ぶりに帰ってきて後ということだから、ウォルターの追想として描かれる時代は、1960年代あたりになる勘定で、その後、ウォルターが漫画家としてそれなりの仕事をするようになっている状況からは、それから二十年くらい経っている計算になる。1914年に二十歳前後だった兄弟が九十歳代で複葉機を操縦していたのは、1990年前後ということだ。少年との約束を守って、彼が独り立ちするまで先送りしていた飛行機操縦だったのだろう。爺さんたちの若かりし頃の話がガース爺さんの語りで、彼らが爺さんになってからの話は、ウォルターの回想という形になっている。だから、映画のなかでかなり面白可笑しく描かれるところが、いかにも回想と語りにふさわしい程度の誇張や潤色として不自然さがない。だからこそ、“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”という台詞が生きてくるのだと思うし、ラストにニンマリできるわけだ。 原題となる“中古のライオンたち”が複数形なのは、それが映画に出てくるライオンを指すのではなく、二人の爺さんを指すからだろう。クレー射撃の次はサファリの真似事をと買い取ったライオンが、動物園でも厄介者となった老いた雌ライオンだったことから、狩りの獲物にするわけにもいかず、ウォルター少年が面倒を見るわけだが、このライオンが檻を出て自分の居場所を見つけるエピソードと末期を迎えるときのエピソードがとてもよくて、映画の原題が二人の爺さんをして“中古のライオンたち”と呼ぶにふさわしい筋立てになっている。ハブ爺さんの言葉にも出てくるのだが、人生にとって必要なのは大金でも権力でもない。このライオンが見つけたような“自分にふさわしい居場所”とガース爺さんやウォルターが示したような“語るにたる物語を得ること”なのだ。そして、その物語の逐一が事実である必要はない。全部が全部“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”を語れるようになることが、即ち人生の求めるところなのだろうと改めて思わされ、しみじみとした情感が泌み渡ってくる。とても気持ちのいい作品だ。 そして、そういう気分になっているところに石油王のヘリが降りてくるのだから笑える。念押しするかのように、本当に事実であったかどうかなんていうのは、どうでもいいのだということをまざまざと見せてくれる。つまり、どんなことであれ、案外事実だったりする可能性が皆無とも言えないわけだということと同時に、事実であったからといって信じられたことの本質や感動が格別新たになったりするものでもないことを体感させてくれるというわけだ。笑って眺める些細なことに過ぎないことを確認して終えるラストが、そういう意味で、とても気が利いている。 それにしても、こういう作品を観ると、今の世の中が“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”をいかに失っているか、特に、いかに次代に与えてやれなくなっているかということに改めて思いが及ぶ。世の中のモラルハザード、教育の荒廃、全ての処がここに集約されるような気がする。“信じられる価値”というものが、多くの人にとって、ひどく限られた痩せたものでしかなくなっている気がしてならない。夢やら冒険、可能性や希望や理想、そういったものの価値を信じられなくなって今の荒みが来ているように思わないではいられなかった。 | |||||
by ヤマ '04. 7.31. 松竹ピカデリー2 | |||||
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