美術館夏の定期上映会“甦るアニメ伝説”


旧ソビエトアニメ:Aプロ・Bプロ (14作品)
エストニアの巨匠レイン・ラーマット特集 ( 8作品)
テックス・エイブリー:Aプロ・Bプロ (24作品)
 今世紀後半の世界の構図でもあった米ソ対立が終結したことは、世紀の一大事件であったが、主催者側にその意図があったとは思えないものの、期せずして今世紀最後の県立美術館のアニメ上映会は、米ソの短編アニメを一挙46作品上映するものだった。“甦る伝説”の名のもとに旧ソビエトとアメリカの短編アニメが五つのプログラムに分かれて交互に並んでいる。

 今回のプログラムで、こともあろうにアニメ映画を今更ながらの米ソ対決に注目する形で僕が眺めることになった大きな要因は、専らテックス・エイブリーの二つの特集プログラムにある。24もの作品で、実に一貫してアメリカの体臭のようなものを滲ませていたように感じたからだ。五十年前当時、大衆に最も影響力のあった文化装置だと考えられる劇場用カートゥーンであくことなく繰り返された漫画映画が育てた体臭なのか、アメリカの大衆が圧倒的に支持するところに即した作品だったからこのような臭気を漂わせているのかは、鶏と卵のようなものだ。とりわけ顕著なのが無頓着な暴力性だ。スピード感溢れる展開やシュールでシニカルなギャグというのはいいけれど、どうしてそれが常に暴力とセックスのなかでしか語られないのかなと、あまりに畳み掛けられると辟易とし始めてくる。ギャグ漫画に目くじらを立てるほどのことではないのかもしれないが、なまじヘンに可愛いキャラクターによって無警戒にさせられるなかで刷り込まれていく気持ちの悪さというものがやはり気になる。

 ここには、闘争を好み、競争に興奮し、大きく強い者や賢く気の利く者の持つ力への信奉が根底にある。そして、その力の論理のなかで、女性をセクシーという視線でしか見ようとしない眼差しやら呆れ返るほどのタフさ加減、底なしの陽気さと幼稚さというものがアメリカン・スピリッツであることをまざまざと見せつけられたような気がする。幼い頃に、TVで観た“トム&ジェリー”のキャラクターに惹かれながらも、アニメのストーリーには妙にすっきりしない、手放しになれない心地の悪さが残ったことを『ホーム・アローン』シリーズに抱いた違和感とともに思い起こした。五十年も前のテックス・エイブリーに限った話ではないアメリカの伝統なのだ。

 暴力やセックスを隔離せよというのでは無論ない。直接的なテーマに取り上げるのは大いに興味と関心を惹かれるところなのだが、オブラートに包んで装って、何の対象化も風刺も覚醒も促さずに、自明の前提であるかのように暴力とセックスに対する欲望をこういう形でくすぐるのは、どうも嫌な感じが残る。無邪気さに装われた、隠れた毒ほど後から効いてくるように思う。

 それに比べるとアニメの世界では、旧ソビエトのほうが遥かに文化度が高いことが今回のセレクションからも窺えた。帰途、友人との話にも出たのだが、とりわけライティングの技術が素晴らしい。さまざまな作家の作品が並んだうえである程度共通してそう思うのだから、これは旧ソビエトのアニメ界の技術なのだろう。しかし、個々の作品にそう突出したものはなく、例えば、去年の『鼻』(アレクサンドル・アレクセイエフ監督)や一昨年の『ファンタスティック・プラネット』(ルネ・ラルー監督)、さらにそれ以前のこの定期上映会で取り上げた『ペンギンに気をつけろ』(ニック・パーク監督)や『バランス』(ロウエンシュタイン兄弟監督)あるいは同じ旧ソビエト作品では、『龍の島』(ジャケン・ドネン/ガニ・キスタウ監督)、『紆余曲折』(ガリ・バルディン監督)といったような特に鮮烈に記憶に残る作品とは出会わなかったという点で、全般的にやや低調な企画であった。そんななかでは、レイン・ラーマット特集からの『地獄』や『シティ』、ウラジミール・タフノ監督の『コサックのサッカー』やアーノルド・ブロヴズ監督の『最後の一葉』などが比較的印象深かった。


参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_193.html

by ヤマ

'00. 8. 6. 県立美術館ホール



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