『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程<みち>
監督 若松孝二


 六年前に観た光の雨を想起するとともに、先頃ブラインドネスを観たばかりであることが繋がってきて、何とも重苦しい気分とやりきれない哀しみを覚えるとともに、『ブラインドネス』のイメージしていた“光の闇”というものに、まさしく彼らが囚われていたような気がした。すなわち、共産主義ないし革命という光で目が眩み、“答のない総括”という闇のなかで、『ブラインドネス』に描き出されていたような“人間の実存が剥き出しになる無間地獄”に陥っていたわけだが、『ブラインドネス』に描かれた凄惨は寓話ながら、本作は、連合赤軍による大量リンチ殺人事件という事実を“実録”として描き出しているのだから、観ている者にとってよりしんどいのは、当然と言えば当然だ。

 描かれていたこと自体は、『光の雨』を観たときに閉塞的な袋小路のなかで、矛先を見失い、仲間同士のなかに矛先を向け、攻撃対象を設けることでしか統率を継続できなくなるところまで追い込まれ、なおかつ、30人近い人間がいてもその狂気に至る道のりを阻止も修正もできない閉塞性と虚弱さによって、ひたすら凄惨な狂気の蟻地獄に陥っていくさまが実に痛ましく、観ていて暗澹たる気持ちにさせられる。閉塞した淀みのなかでは、言葉の暴力が実際の暴力へと容易に転換していくさまが、何とも恐ろしい。と綴ったことと大きな違いはないように思う。だが、その向かい方に大きな違いがあるような気がした。

 映画『光の雨』は、事件そのものの映画化ではなく、原作小説を題材とした同世代者たる映画の作り手が自身にとっての連合赤軍問題を自らに問いかけると同時に、30年前の若者を演じる現代の若者の姿に焦点を当てることで、現在からの問題意識を炙り出すことのほうに力点を置く構成をとっていて、本作に冠せられた“実録”とは対照的な作品だ。そのことによって、作品的な深みを得る一方で、当時の事件そのものに正面から対峙することを避けた印象や、自分にはこの作品を撮る資格がないと言わんばかりに失踪してしまう映画監督を登場させるあたりに、ある種の誠実さと同時に、未然に自身に向けられる矛先をそらす周到さを窺わせたりもしていて、連合赤軍に身を投じボロボロになった若者たちを「全くもって、どう受け止めればいいのか、気持ちの持って行き場がないような息苦しさを覚え」させつつ、「あの事件およびあの時代が全共闘世代に残している屈託というものを窺わせ、重く苦しいものを感じさせ」る作品になっていたように思う。

 それからすると、ある種の勇敢さとともに潔く“実録”と銘打ち、倉重・上杉などという変名を冠せずに森・永田として描き、もったいぶった韜晦を何ら加えることなく、むしろ単純化して明快に状況を描き出し、作り手の解している回答を示そうとしているような気がした。すなわち、武力闘争を掲げるブント関西派によって結成された赤軍派の目指した軍事行動路線と同じく武力闘争を掲げた京浜安保共闘の革命左派が、ともに指導部の大量逮捕拘束によって組織的には壊滅状態に追い込まれるなかでの窮余の策として打ち出した“統一赤軍”が改名指示を受けて“連合赤軍”と名乗るに至った背景を明示するとともに、広く連合赤軍闘士も含め、学生運動に身を投じた若者の志を汲みつつも、連合赤軍が、最初から極めて過酷な閉塞状況のなかで誕生していたことを遠因に、そのような袋小路に押し込まれた人間集団が陥りがちな悲惨を克服できなかった虚弱さを“勇気のなさ”として台詞としても明言する形をとり、作り手として解している直接的な理由の回答を見せる意思を示していたように思う。そして、劇中では、あさま山荘に篭城抗戦をした最後の五人のなかにいた十六歳の最年少兵士であった加藤三兄弟の末弟元久の叫びとして示されていたこの言葉が、捕縛後一年近くを経て迎えた元旦に獄中自殺をした森恒夫が当日残していた遺稿にある言葉とも重なるものとして、映画の最後にナレーションとともに映し出されていたのが印象深かった。総括要求により自らが死に追いやった同志の妻が差し入れた花に寄せる形で書き起こした短文のなかに記された「今ぼくに必要なのは真の勇気のみ」との“勇気”が指すものと加藤元久の台詞として設えられた“勇気”の指すものは違っているけれども、彼らが身を置いた状況におけるキーワードだったとの解釈に僕も異論はなく、まさしくそのとおりだったように思う。

 場面として最も印象深かったのは、警察の突入シーンだった。銃器を持った武装集団に対して銃器使用なしで突入しての制圧を命じられた警官たちが、職務とはいえ果敢に飛び込んできている姿に、まさしく連合赤軍の兵士たちになくて警官隊にあったものとしての対比が効いている気がしたとともに、そんな無体な作戦行動を現場で指揮し命じた佐々警視正が誇らしげに自著に綴っていたのは専ら鉄球作戦のほうで、現場の警官たちには見下し目線で臨んでいたらしいことがそのまま透けて見えるような“忠実な”映画化を果たしていて、非常に見苦しい作品だった突入せよ! あさま山荘事件ではついぞ得られなかった警官隊側への感銘を誘われ、我ながら少々驚いた。今の警官隊に果たしてそういう作戦行動が取れるのだろうかと思わずにいられなかったとともに、鉄球のテの字も映し出さない若松監督に『突入せよ! あさま山荘事件』への強い反発意識が窺える気がした。

 そして、組織的一体感なり合一を求め“温度差”を問題視する価値観に対する嫌悪感が僕のなかにあって“緩やかな連携”こそが大事だとかねがね思っていることや、いわゆる指導者の位置に自分が就くことを望まない心性がどこから来ているのかを再認識させられたように思う。その器にない者が指導者たる位置に就いたときの悲劇たるや壮絶なものがあることは何も連合赤軍に限った話ではなく、また、現実的には彼らほどに閉じた組織状況が起こりにくいということはあるものの、例えば、閉じたるものの代名詞であるかのようにメディアに扱われがちな学校や都市部の核家族のなかで時に生じている人間関係の凄惨を思うと、連合赤軍に起こった悲劇がその思想性とか政治性によって招かれたものでは決してないことが容易に窺えるのだが、この問題を思想性とか政治性によって語りたがる向きがいまだに多いことが残念でならない。人間性の問題を思想問題にすり替えてしまったことこそが彼らの陥った最大の誤謬だったように思うのに、それが一向に活かされず、政治や思想問題そのものがタブー化しているような気がする。





参照テクスト:お茶屋さんの掲示板、ケイケイさんの掲示板での談義の採録

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080509
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0902_4.html
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=759700473&owner_id=425206
by ヤマ

'08.12.22. 美術館ホール



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