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『光の雨』 『突入せよ! あさま山荘事件』 | |||||
監督 高橋伴明 監督 原田眞人 | |||||
三十年前の連合赤軍事件を取り上げて、「大量リンチ殺人事件」のほうに焦点を当てた作品とその直後の「あさま山荘事件」のほうに焦点を当てた作品を続けて観た。作品の持つ力としては、数段の違いがあるように思った。どちらの作品も当事者でもない者が軽軽に口を挟めそうにはない特殊な状況に身を置いた者の姿を描いている。彼らのとった行動や判断について、とやかく批判を加えるのはたやすいものの、そんな厳しい状況に身を置いたことのない我が身からは、いささかの気後れが生じる。だから、具体の事々に対する批判ではないのだけれど、作品自体の持つ視線として、ある種の見苦しさを『突入せよ! あさま山荘事件』に感じたのは、『光の雨』が実に真摯に向き合う視線というものをひしひしと感じさせてくれたからかもしれない。 『突入せよ!』で最も印象深いのは、実質的な現場指揮の特命を長官から受けた佐々警視正(役所広司)が任官なき任命ゆえに終始難儀するありさまなのだが、底流にあるのは、佐々氏本人のライフワークとも言うべき“危機管理”ということについて、いかに自分以外誰も事が判っちゃいないのかという嘆きであり、その状況下において精一杯はやったけれど、ベストの結果は得られず、最悪に至らなかったのも多分に運がもたらしてくれたものに過ぎないような指揮しかできなかったことに対する弁明のようなものだ。だが、それも無理からぬところはある。佐々局付が後藤田長官(藤田まこと)からメモ書きで示された5つの方針のもとに、組織としても個人としても、かつて経験したことのない試練の現場に臨むにあたって、その特命を果すうえで一番厄介だったものは、犯人たちでも極寒の現場でもなく、組織の縄張り争いと個人の面子争いだったり、指示とその遂行がきちんと行われない規律のなさ、状況や作戦の意味するところを理解できない見識のなさであったりしたわけだから、脱力感と苛立ちにはさぞかし悩まされたことだろうとは思う。その根底にあるのは、まずは訓練不足であって、それは訓練というものが、身体技能的な訓練のみに終始し、作戦訓練や指揮訓練といった頭脳的訓練がほとんどなされず、職階による威光のみによって、手探り的に全く非系統的に発せられるからだ。そして、一番の問題は、権限と責任を明らかにした指揮命令系統が確立していないことだ。このあたりのことは僕自身も、ささやかながら公の権力組織に身を置く者として、常々痛感していることだし、同時に、それゆえに生じがちな責任感覚の欠如というものに自分自身が無縁でないことも知ってはいる。 そういう意味では、佐々警視庁警備局付監察官が難儀をした根幹は、特命を自分に下すのであれば、臨時長野県警本部長の職をくれと言った佐々に対し、年齢だの期数の問題だのから拒んだ後藤田長官の職務命令にある。職務命令を発する際に「職」を与えずに「務」のみを与えるのでは、間違っている。しかるに、佐々氏の視線は、長官へは全く批判的に向かわず、むしろ心服の念が窺われ、長野県警に対しては本部長(伊武雅刀)以下全員に対して、批判どころか見下すようでさえある。自らの属する組織に対しても、一部の親しい者を除くと同じだ。指摘している問題は、的を射ているようには思うのだけれど、批判よりも揶揄や見下しになっている態度や長官を特別扱いしていること、そのうえで「だからあれが精一杯だったし、あの状況下では、それなりによくやったと思っている」というようなことを自身の内に留めるのではなく、敢えて積極的に表出しているところに、僕は見苦しさを感じたのだろうという気がする。そもそも、彼は現場主義に立っているつもりでありながら、この映画自体がまさにそうだったように、最前線の様子は、それほど描かれないで、現地対策本部がほとんどだ。そのなかで東京との確執が描かれるのだから、およそ最前線物語ではないのだけれど、そのことにかなり無頓着で無自覚な気がする。 他方、『光の雨』は、そういう類の無頓着や無自覚に繋がることを避けるのに細心の注意を払う真摯さが印象深く、非常に誠実な映画だという気がした。原作の立松氏は佐々氏のような形で現場に居合わせたわけでもないから、佐々氏以上に細心の注意を払うべきなのは当然のことでもあるのだが、おそらくは原作ではそうなっていなかったはずの形式すなわち、小説『光の雨』の映画化を映画として作品化するという形式を採ったことが、原作が払っていたであろう細心の注意というものをより具体的に、視覚化して提示することに功を奏していたような気がする。安易に分かったような顔をして物語れないことを作り手が強く意識しており、少なくとも追憶や同世代的なシンパシーを受け取られることには徹底した警戒が窺われる。『突入せよ!』にも、単に三十年前の出来事を語るのではない、現在からの問題意識は窺えたが、こちらのほうがより明確にそのことを提示している。映画で言及されるオウム教団を持ち出すまでもなく、作品そのものが今の若者の物語として語られるのだから。そのうえで、劇中の映画監督(大杉漣)が、自身にこの作品を撮る資格がないと言わんばかりに失踪してしまう姿には、高橋監督の自己投影が窺われるように感じた。そこには、ある種の誠実さと同時に、未然に自身に向けられる矛先をそらす周到さが潜んでおり、そのことによって尚のこと、あの事件およびあの時代が全共闘世代に残している屈託というものを窺わせ、重く苦しいものを感じさせる。 現代の若い役者たちが三十年前の同じ年頃の若者たちを演じるという形のなかで、問い直そうとしつつ、わからないと繰り返していた。わからずとも知り置くことに意味があると言えるほどに時間は経過したのかもしれない。閉塞的な袋小路のなかで、矛先を見失い、仲間同士のなかに矛先を向け、攻撃対象を設けることでしか統率を継続できなくなるところまで追い込まれ、なおかつ、30人近い人間がいてもその狂気に至る道のりを阻止も修正もできない閉塞性と虚弱さによって、ひたすら凄惨な狂気の蟻地獄に陥っていくさまが実に痛ましく、観ていて暗澹たる気持ちにさせられる。閉塞した淀みのなかでは、言葉の暴力が実際の暴力へと容易に転換していくさまが、何とも恐ろしい。全くもって、どう受け止めればいいのか、気持ちの持って行き場がないような息苦しさを覚えた。 作り手は、それを見越していたのかもしれない。実際の事件の森恒夫とおぼしき倉重を演じる、漫才から役者に転向して道端で言葉売りをしている若者(山本太郎)が、オーディションのときに好きな言葉を問われ、母親の口癖だったという「よう言わんわ」だと答え、その言葉にどんだけ救われたことかなどと人を食ったようなことを言う場面があったのだが、最後に僕もその言葉で、行き場のない息苦しさから救われたような気がした。それだけ作品に緊迫感が充満していたということなのだろう。また、山本太郎は、森恒夫と見た感じが随分と乖離していたが、裕木奈江が永田洋子のイメージとそっくり重なっていて、少なからず驚いた。原作者自身のナレーションも本作品においては、例外的にうまく作用しているような気がした。やはり、いろいろな意味で、特殊な作品なのだろうなと思う。 *『光の雨』 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲がっちゃいました。」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002hicinemaindex.html#anchor000740 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」 特集企画『映画を語る映画たち』より http://www28.tok2.com/home/sammy/films/ohkura.html 推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より http://madamdeep.fc2web.com/hikarino_ame.htm 推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より http://www.j-kinema.com/rs200205.htm#光の雨 参照テクスト:十五年後の再見日誌 *『突入せよ! あさま山荘事件』 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲がっちゃいました。」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002tocinemaindex.html#anchor000797 | |||||
by ヤマ '02. 6. 5. 県立美術館ホール '02. 6.13. 高 知 東 映 | |||||
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