『ブラインドネス』(Blindness)
監督 フェルナンド・メイレレス


 突然の失明を引き起こす感染症によって、旧式の精神病院を代用した強制収容施設に隔離され、日頃は社会的に考慮されていた性別・年齢・人種・職業といった属性を一挙に剥ぎ取られ、殆ど檻に入れられた動物に近い形での集団生活を強いられることになった人々の織りなす人間模様のなかで露になる人間の実存を問い、描き出した作品だったが、よくよく作り手は、男性性なるものへの嫌悪と絶望が深いのだろうと思った。男未満の少年か、男を卒業した老人でなければ、男たるもの、命令されるのが嫌いで命令するのが好きで、何らかの力を得れば、ひたすら支配と専横に向かう暴虐のエネルギーを恣にするか、そうでなければ、力なき脆弱さに怯むかの情けなさだった。そのどちらにあっても安っぽいプライドだけは遜色なく、全くもってどうしようもない存在として造形されていたような気がする。そういう意味では、人類の名の下に築きあげてきた有史来の人間文化や社会力学における諸悪の根源は、全て男性性にあると言わんばかりの作品だったように思う。
 アグノなんとかという“失認症”なる言葉から、“不可知論”ひいては“不信”という、この作品が人間なるものを問ううえでの主題的なキーワードをアナロジーとして、序盤でお題のように全て提示していた構成からして、この作品は、シンボリックな寓話を意図していた映画だという気がする。それゆえに、ドラマの展開や登場人物の言動の細部に現実感を求める筋合いの作品ではなく、問われるべきは、描き出されていた人間の実存についての説得力のほうだろう。その点では、なかなかの力量を窺わせる作品だったように思う。だが、映画のなかでシンボリックに現出されていた人間観や社会力学に対して僕自身が概して賛意を覚えるがゆえに、過剰に強調されているようにも感じられた描出がむしろ仇となり、それに見合うだけの触発が僕のなかでは得られず、少々疲れてしまった。目を逸らすことを決して許さない力が画面に宿っているだけに、脱力もできず却ってしんどかった感じだ。
 また、露になると凄惨と言うしかないような人間の姿と社会的な力学における“力の頂点たる政治権力の具体とも言うべき政府”なるものが、己が支配下に置く人民を救済しようとする組織では決してなく、むしろ見下し弄ぶものでしかないことを、収容された罹患者の処遇設備や食糧供給のみならず、地面に投げ置かれたクワへの看守による誘導といった小さなエピソードにまで徹底して、強調し、画面に込めていた気がする。
 強きも弱きも共に力の論理に支配され、その醜悪を露呈させていた男とは対照的に、女性については、全てが気高き者とまではいかずとも、少なくとも悪しき者としての存在は只の一人も現れないといった、あまりにも単純化された図式的な対照感が、作品から触発力というものを奪っているように感じた。収容者の全員が盲人であるなかで、第1病棟の代表者となった眼科医(マーク・ラファロ)の妻(ジュリアン・ムーア)は、唯一人、目が見えるという圧倒的に優越した力を保ちながらも、その力を拠り所にして支配と専横を恣にする方向には決して向かわないのに対し、たかだか1丁の拳銃と実弾を所持しただけで“王”を自認し、増長していく第3病棟の代表者(ガエル・ガルシア・ベルナル)の愚劣ぶりには、コールド・マウンテンに出てきた自警団と称するティーグ一派を思い出す憎々しさがあったように感じた。思えば、かの作品も「男性的な“力の論理による社会”のあり方そのものを問い直しているように感じられた」と日誌に綴った映画だ。だから、『ブラインドネス』で描かれていたことについても、本質的には、それは誤りではないように思うのだが、ここまで露骨に露悪的に打ち出されると、もはや少年ではなく、まだ男を卒業するには至っていない中高年の身としては、さすがに不愉快を刺激されるようなところがあったように感じる。アンチ男権主義者を自認している者に対する似非暴きを企図した確信犯なのかもしれないが、さすがにそこまでの意図はなかったような気がする。
 興味深かったのは、眼科医の妻と同じく感染による失明者ではない男(モーリー・チェイキン)の存在を設えていたことだ。彼は元々からの全盲者であったために、当然ながら、俄か失明者と違って目が見えないことへの対処能力が高く、その有能さによって第3病棟の王の抜擢を受けるのだが、次第に、むしろ王を陰で操り、実権を握っているかのような風情だった。隔離施設に収容されるまでは、大きなハンディキャップを負わされていた男がハンディキャップ・ゼロどころか優位性を獲得するや、次第に積極的に支配と専横に向かうわけだが、例えば、八日目』や『奇跡の海で気になった「障害者に善良さを役割的に押し付ける」ような作り手の視線との比較からすれば、まさに普通人として真っ当に捉えているわけで、そこのところには大いに感心した。第3病棟の王の拳銃と同じく、眼科医の妻の優越に比すれば、ほんのわずかな優位でしかないところが効いているのだが、彼にしてみれば、まさに逆転なのだから、さぞ有頂天になっていたことだろう。人の関係性を力関係で捉える視線においては、わずかな差異や逆転が物凄く意味を持つのが人の世の現実であるのは間違いない。
 おそらく眼科医の妻は、感染しなかったのではない。感染したが、発症しなかったということなのだ。それは、彼女が抗体を備えていたからであり、その抗体が即ち“人の関係性を力関係で捉える視線を排した人間観”だったのだろう。彼女が苦悩するのは、そこのところを揺るがされる事態を目の当たりにしたからであり、にもかかわらず挫けなかったから発症しなかったのであって、彼女が苦悩の果てに抗体を壊してしまったら、その途端に彼女もまた失明していたような気がする。それは、不可知論的な立場から言えば、彼女は、いかなる事態を目にしながらも、それによっては実存の認識はできないのだから、抗体が失われなかったということになるようにも思う。他方、神の存在を前提におけば、その与えた試練に彼女が屈しなかったことで神の恩寵がラストに訪れたという観方ができるわけだが、いずれにしても、あまりに図式的で、それ以上の膨らみや触発が得られない割に痛烈すぎる描出というバランスの悪さによって、興味深さよりも不愉快を刺激された印象のほうが強く残る作品だったような気がする。




参照テクスト:掲示板談義の編集採録


推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/review811.htm#blindness
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20081127
by ヤマ

'08.12.15. TOHOシネマズ1



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>