『いのちの食べかた』(Our Daily Bread)
監督 ニコラウス・ゲイハルター


 圧倒的な大規模経営で行われている食料生産を観て先ず感じたのは、これだけのものと比べて我が国で食料自給率を問題にするのはおこがましいとの思いだった。エンドクレジットで2003から2005年のヨーロッパでの取材と記されていたが、言葉の様子からは主にドイツだったように思う。もっとも一切ナレーションもテロップもなく、労働者の会話すらほとんどない形の編集をしていたので、言葉の様子からというのもわずかな手がかりでしかない。そのような編集を施していたのは、おそらくは、恐るべき規模でひたすら量産をしている食料生産の現場を捉えた映像に、ある種の殺伐感を宿らせようとの意図が働いていたからではないかという気がする。食料生産労働に従事する人々の昼食がやたらと簡素であったり、働く人々の姿の中に笑顔の一つも笑い声の一つも入れずに排していたのは、そういうことなのだろう。とにかく、食料を大量に生産し確保するための徹底ぶりに圧倒された。

 ひよこの尻を機械に押し付けてから籠に入れていたのは、鶏卵生産のための雌雄鑑別をしていたのではないかと思われるのだが、何ら説明はなく、豚の尻に管を差込み何かを注入していたのは、人工授精をしていたのではないかと思われるのだが、何らの説明もなかった。次々と流れてくる子豚を金属製の台に固定して股をくつろげて、処置しては放り出す作業を二人の女性が繰り返していたのは、おそらく去勢なのだろうと思ったが、これも何ら説明されない。黙々と恐ろしく機械的に大きな牛から魚まで大量の生き物の命が葬り去られていく。

 そして、食料が全て元々は“生き物”であることを生々しく示しながら、“生き”すなわち命の部分が極端に抑え込まれた“モノ”扱いが徹底していて何とも強烈だった。屠畜のボリュームの凄まじさも半端ではないのだが、淡々と大量殺戮をひたすら効率よく作業として進めていくことの貫徹ぶりに、不謹慎ながら、思わずドイツはこういうことが得意なんだろうなとの想起を促されてしまった。人ではなく、動物だからと思いつつも、こうまでして生き延びなければならなくなっている人類の現況に、少々哀しみを覚えるとともに、完璧なまでの防疫服に身を包んで巨大ハウスのなかで植物に薬液を散布している労働者の姿には、人の哀しみよりも不気味な怖さを禁じ得なかった。

 これほど大量に食料生産をして、一体どうするのだろうと思わされるほどだったが、考えてみれば、それこそ有史以来、未曾有の人口を抱えた地球で食い繋ごうとすれば、これでもまだ足りないというのが実際のところなのだろう。ここまでして大量生産をしなければ、とても今の人口は賄えないどころか、そうしても尚そこそこの食料自給率をからくも確保するに留まっているのが現状で、尚且つ、そのような食料自給を果たせている国がそう多くはないのが今の地球の現実であり、人類というのは、単に自然環境だけでなく、破格の負荷を他の生き物に対して掛けて生き延びている存在なのだ。そう思うと、命を食い物にして生き延びるということでは、食い物にする矛先を動植物のみならず、同じ人間にも向ける業の深さが人間にあるのも道理のような気がしてくる。だからこそ哀しく、観ていて少々気が滅入ってきたのだろうが、そんな人間なる存在が、動物愛護など言うもおこがましい気がしてくる。せめて人間同士で食い物にすることは思い止まるようになればいいのだけれども、昨今はとみに、むしろ反対方向に世の中が進み、弱肉強食を摂理だとして居直ってきているように感じる。そんななかで、明らかに行き過ぎと思える最近のペットブームに対しては予てより少々辟易しているのだが、生き物の命を弄んでいるということでは、さほど大きな違いはなく、そもそもが人間の備えた業の深さに他ならないのかもしれない。

 それにしても、岩塩を掘り出すのに、あれほど地底に深く下りて大洞穴のなかでショベルカーで掻き出していたり、仰天するほど大規模なハウスがいくつもの丘にまたがって一面に何棟もずらりと並んでいたのには、驚いた。いやはや物凄いスケールだ。岩塩採掘坑へ降りていくエレベーターの時間の長さが仰天もので、もちろん高層ビル用の高速エレベーターほどのスピードではないのだけれども、背面の動きに普通のエレベーターくらいの速さが窺える映像のなかであの所要時間だったのだから、途轍もないことだ。大地の凄さということにも同時に思いが及ばずにはいられなかった。それを食い尽くそうとする人間は、さらに輪を掛けて凄まじいということになるわけだが、全く、我々人間という代物は因果な生き物だと改めて思った。

by ヤマ

'08.12.11. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>