| |||||
『ハンコック』(Hancock) 『アイアンマン』(Iron Man) | |||||
監督 ピーター・バーグ 監督 ジョン・ファヴロー | |||||
スーパーヒーローものだという予備知識を持たない状態で『ハンコック』を観たものだから、オープニングから意表を突かれ、「ナンなんだ、これ?」という気になったが、へんてこな映画だなぁと思いつつも、妙に惹かれるところのある作品で、観終えてから、何故なんだろうとついつい振り返っていた。 『スパイダーマン』('02)以降、目立ってきたように思われる“悩み多きスーパーヒーローもの”路線のようだが、人助けをしても嫌われるにも関わらず、まるで本能のように“やりすぎパワー”を発揮しないではいられないハンコック(ウィル・スミス)の姿を観ていたら、これはもう意志とか使命とかではなく、習性なのだという気になった。そう思ったとき、ハンコックという存在が近年のアメリカという国の暗喩のような感じがしてきた。他の対処の仕方には目だった才がなく、当人にとってはやむなきことで半ば無自覚なのだが、力任せの乱暴な問題解決への臨み方というものが人々の支持を得られず、孤独感に苛まれながら、出口も見つけられずに酒浸りにでもなるしかないなかで、小さなプライドばかりが高くて挑発に乗せられやすい単純さから、あちこちで粗暴な振る舞いを見せてしまう、並外れたパワーと戦闘能力の持ち主というわけだ。いちいちが余りにも符合しているから、作り手の意識にあったことのような気がしてならない。 さすれば、離れているとハンコック以上の力と強さを保ち、そばにいると双方の力を失わせ、普通の人間にしてしまう妻メアリー(シャーリーズ・セロン)の存在は、何に当たるのだろう。記憶を失っている彼を縁のような力で引き寄せ魅了する、切っても切れない間柄の存在だった。親和感というものが、戦闘意欲のみならず戦闘能力そのものを奪うという比喩には、なかなか含蓄があったように思う。強大であり続けたければ、メアリーを遠くから見守るしかないという設定が、スーパーヒーローものに限らず古来ハリウッド映画が送り続けてきた「ヒーローは孤独でなければならない」という不文律に忠実だった一方で、派手な夫婦喧嘩というかじゃれ合いともいうべきもので街中を破壊しつつ、まるで漫画の『ドラゴン・ボール』のような戦いぶりを繰り広げるのは他にはない逸脱で、少々唖然とさせられるところがありながら、妙に可笑しかった。 ハンコック以上の力を持つ彼女は、彼と離れることで、その力と強さを内在させつつも、敢えて努めて力を秘し、子連れのレイ(ジェイソン・ベイトマン)と結婚して、普通の人間として暮らそうとしていたから、己が力を保ちたくてハンコックと離れたわけではなさそうだ。普通の人間のように平凡に暮らしたいのが彼女の望みならば、ハンコックといれば、秘するに及ばない喪失を果たせるのだからそうしたはずだ。それにも関わらず、夫ハンコックと離れていたがったのは、なぜだろう。ハンコックという男を忌み嫌っていたようにも思えなかった。映画のなかでは、自らの生を運命の定めに委ねることなく、自身の選択によって生きる欲求と意思の証明としての動機が、彼女の台詞として語られてもいたが、僕の印象としては、夫の力を奪いたくない思いが彼女の思いの根底にあったような気がしてならない。ヒーローを求めて止まないというか、求めずにはいられないアメリカ文化そのものが反映されていたように思う。 だが、この興味深い二人以上に気になるのは、ハンコックとメアリーという二人の“Too Much Power”を備えた孤独で悩み多きスーパーヒーローに、救いの付与を果たし得ていたレイの存在だった。彼が際立った形で持っているのは、もちろん力ではなく、人に向ける素直なまなざしと人の良さとしても映る“親和感”だったように思う。されば、ハンコックをアメリカという国の暗喩としたときのレイは、何に当たるのだろう。 『アイアンマン』もまた『ハンコック』とは少し違った意味で、興味深く面白い作品だった。それは、アメリカ映画が、こういう娯楽作品で兵器製造こそが悪などということをストレートに描く作品を作るようになったのかという形での意表を突かれたからだ。だが、結局のところ、戦闘用パワードスーツを身にまとったスーパーヒーローという“力に対する信仰”には微塵の揺るぎもない。そこがまたいかにもアメリカ映画らしいという気がするとともに、『ハンコック』でメアリーに投影されていたものと通じているようにも感じた。 『アイアンマン』でのトニー(ロバート・ダウニー・Jr)とペッパー(グウィネス・パルトロー)の関係のほうは、ハンコックとメアリーとは違って、随分とクラシカルな作りではあったけれど、あまりに忠実に古典的なものだったから、そこに妙に安心感と心地よさを覚える自分に、少々気恥ずかしさを感じないでもなかった。 彼女は、潔くて凛々しくて、賢くて勇気があって、何より寛容で、実に申し分ないわけだが、ホントに絵に描いたような内助の功みたいな描き方だったような気がする。ある意味、先のNHK大河ドラマの『功名が辻』以上じゃないかという気がしたほどだった。 それはそれとして、あのパワードスーツにまつわるメカニカルな描出の丹念さは、プラモ作りや工作が好きだった子供の頃の気持をくすぐってくれるような楽しさがあって、同じ手作りスーツではあっても、裁縫系のスパイダーマンよりも断然ワクワク感をもたらしてくれていた。いくら天才だとしても、そんなバカなというような気分には、一向に見舞われなかった。 | |||||
by ヤマ '08.10. 9. TOHOシネマズ5 '08.10.11. TOHOシネマズ8 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|