『明日の記憶』
監督 堤 幸彦


 映画のなかで注意喚起を施されながらも、すぐには「桜・電車・猫」が出てこなかった僕にとって、前半は、ほとんどホラー映画とも言うべき怖さがあった。

 「ビシッと行こう」が口癖の中堅広告代理店営業部長の佐伯雅行(渡辺 謙)は、僕とは全く異なるタイプの男だけれど、彼が若年性アルツハイマー病の発病に見舞われた歳に、僕は来年なるのだから、他人事ではない。おまけに、かつて学生時分に一ヶ月間つけずにおいた小遣い帳を、時を遡り順に辿って経路を思い出しつつ記帳していって、残高が財布の中身とピタリと一致した覚えがあるくらい、物覚えには自信があって、四十代になるまで、いわゆる“ど忘れ”というのが感覚としては妙によく分からないなどと嘯いていた僕が、四十五歳のとき、自分が組合長を務めているアートボード高知管理組合の総会の日を役員会の日と続けざまにすっかり忘れてしまい、どちらも呼び出しを受けるまで全く気づかずにいて、ひどく衝撃を受けた覚えがあるものだから、大事なクライアントとの会議を忘れてしまっていた佐伯を観て、どきりとさせられ、病の進んでいく彼の姿に何だか動揺させられた。

 三年前のあのときは、知人たちから「君でもこういうことがあるんだねぇ。」と物珍しげに見られつつ、何処か嬉しげにもされたのだが、僕の受けた衝撃は、半端なものではなかったように思う。本当に愕然とした覚えがある。以来、僕の最も恐れる事態というのが“認知症発病”ということになっている。

 しかし、本当に怖ろしいのは物忘れではなく、この作品で佐伯自身が語っているように“自分が自分でなくなること”だ。見境がなくなり、記憶が失われ、自分自身が急速に壊れて行きつつある状況に繰り返し直面させられる期間が一定続くわけで、この耐え難さは、まさしく半落ちで、梶の妻啓子が夫に「殺してください」と頼んだのも道理だと思えるほどのものなんだろう。『半落ち』では、その様子が丹念には描かれていなかったけれども、本作では、渡辺謙の熱演に引き込まれ、身につまされた。とりわけ、壊れ行く自分が妻から痛いところを突かれて我知らず皿で頭部を殴りつけてしまっていることに直面して慟哭する場面には、自分が壊れて行きつつある状況に繰り返し直面するなかでも、ここまで来たのかとの絶望感が滲み出ていて、いささか応えた。「あなたがしたんじゃない、あなたの病気がしたのよ。」と、堪えつつ自分自身に言い聞かせるように呟く妻の枝実子(樋口可南子)の台詞は、二十年ほど前に観た『花いちもんめ('85)』『人間の約束('86)』でも、似たようなものを聞いた気がするけれども、なんとも悲痛で自分がその状況になることだけは何としても御免こうむりたいと思えるものだった。

 なんのかんの言っても、自分が最もあてにし頼りにしていたのが妻であることに気づかされ身に沁みた後になお、目の前の彼女の認知すら覚束なくなるのが認知症というものなのだろうが、一気にそこにまで至ればまだしも、その過程では、随分と悔しく情けない想いに苛まれるわけで、概ねこういう作品では、周囲に負担を掛けてしまう面での情けなさが描かれることが多かったように思うが、本作では、職業人としては耐えられなくなった雅行がすさび事に再開した焼き物で、物忘れに付け込んだ費用の二重請求をされてしまう侮りをこうむる悔しさまでもが描かれていて、印象深かった。

 また、目の前の妻を認知できなくなる状態というものをひとつのゴールイメージとして描いているように映っていたのも、興味深いところだった。雅行が枝実子との馴れ初めの想い出のある山奥の廃窯を一人訪ね、妻の名を刻んだコーヒーカップをどうにか野焼きで焼き上げるのだが、創作物として自分の作り出せる最後となるかもしれない焼き物の柄が取れて壊れていたことが、クリエイターと呼ばれる業界に身を置いていた彼には痛撃で、それが一気に引き金となったかのようにして、妻への認知をも失うに至る。しかし、これによって、彼にはむしろ心の平穏が訪れているように見えるとともに、このことが妻の側にも程良い心の踏ん切りをもたらすひとつのラインであることを偲ばせているかのように、僕の目には映った。映画の冒頭に映し出された二人の穏やかでゆったりとした表情が、雅行の入居しているケアハウスを枝実子が訪ねて面会している姿であったらしいことが、最後に示されていたわけだ。

 彼女が、かような慈母観音のような表情を湛えられる状態で、夫への直接的な介護から解放されるまでには、それこそ筆舌に尽くしがたい苦闘があったわけだが、逆に言えば、そんな苦難に見舞われたとしても、ある種の納得感とともに晴れやかに楽になれる時点が必ずやってくるのであって、無限に続きはしないということでもある。家族が要介護者となって忽ち施設に送る踏ん切りは、通常なかなかつかないものだ。枝実子は、雅行の病気がかなり進んできた時点で友人の喜美子(渡辺えり子)から勧められても、そうはできずにいた。それを踏ん切らせたのは、やはり夫が目の前の自分を観てさえ妻だと認知できなくなったからだろう。しかし、枝実子のそれまでの介護ぶりを観ていると、伴侶の心と記憶が壊れゆく過程にとことん付き合うことが図らずも修行となって、だからこそ、それに見合った解脱が得られているようにも見えた。この病と付き合うことがそういうことであるならば、伴侶が認知症に見舞われることが絶望の淵に突き落とされること以外の何ものでもないという思いから、少しは気持ちの取りなしをしてくれる部分があるようにも思える。少なくとも、いつまでもではないということを意識できるか否かの違いは、べらぼうに大きいような気がする。




参照テクスト:東田 勉 著『認知症の「真実」』読書感想文


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0606_2.html#asita
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060515
by ヤマ

'06. 5.20. TOHOシネマズ3



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